茶道具を観る

 

別に目利きでも骨董を買う趣味があるわけではなく、お茶の作法も知らない。だが、茶道具を美術館で見るのは好きだ。無論、屏風や書画もよいがやはり惹きつけられるのは茶道具だ。私としては自分が立体のものが好きだからだと思う。立体物には説得力がある。

茶道具を美術品として鑑賞し、珍重する姿勢というのは日本ならではの文化ではないか。源流は確かにシナ、朝鮮の陶器にあり、シノワズリ、シナ趣味が流行したヨーロッパでも壺や皿などの陶器が美術品として流通するようになる。美しいから、エキゾチックだからという理由で収集され、美術館に収められるようになったのは後のことである。

 

茶の湯がはじまった安土桃山時代にルイス・フロイスは粗末な日用品に大名たちが城を買えるほどの大金をつぎこんでいると不思議に思ったようだ。逆に日本人はヨーロッパ人が宝石を有難がるのを不可解としたらしい。茶道具が面白いのは、茶会で使用する実用のものであり同時に美術品でもある、という点である。生活に密着し用いられるものが即美術であり、また芸術が生活に用いられる。芸術と生活の隔てが無い。そこにただ鑑賞するだけの絵画や彫刻、オペラなどとは全く異なる何とも言えない面白さがある。全てに美的感覚を行きわたらせることが日本のあるべき生活の姿なのだ。北大路魯山人が茶道を美的趣味総合大学といんだように。千利休の侘び茶も、それまでの唐物を重んじ、連歌を行い、宴会をし、茶を飲みながら美術品を鑑賞するという「書院の茶」からより生活感を重視したものになった。利休は朝鮮で見向きもされなかった日用雑器を茶器として用い、漁師の魚籠を譲り受けて花入れにした。

無論、禅の精神などもあろうが、「市中の山居」を愉しむという発想そのものが、忙しない都市を離れた山中にこそ日本人らしい生活があるという素朴な憧れからではないだろうか。仮想された非日常の日常を愉しむという稀有な趣味。その中で使われてこその茶器であり、茶碗なのだろう。

 

そうなると、現在の美術館に飾られている茶道具の鑑賞は、本来の茶器そのものの役割を失ってしまったと言える。現代の大富豪だって、もともと持っていた、というのならともかく、重用文化財の利休の黒茶碗で茶を喫するなど到底できないだろう。元所有者の大財閥当主であれ、美術館にあるような一品を、ちょっと戻してもらって茶会をするなどということが行われているとは思えない。こうして現代の茶道具は、大名や富豪が、その手触りを愉しみ、また客に披露し、茶会という日常を模した非日常で使われる存在から、千円くらいで観ようと思えば観ることのできるガラスに隔てられて見る完全な美術品となった。

 

なんとも空しいことである、数多の数寄者に美しい女性のように密やかに愛された茶道具が、ろくにものを知らない、高いか安いかくらいしか興味の無い、「なんでも鑑定団」で骨董を知った愚かな大衆があんぐり口を開けて観るだけの代物になってしまった……とまあ上流階級っぽく嘆くのは簡単だ。しかし、逆に考えれば万人の目に触れうる存在となったのだから、それをもって良しとしてはいけないだろうか。骨董趣味はちと敷居が高い。美術館に行く、図録を眺める、などでもいいのではないか。

一つの美しいものとしてありのまま観たい。

大衆化は必ずしもよいとは言えない。いや、悪い場合の方が多いだろう。だが、万人が観ることができる状況は歓迎すべきだろう。

 

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