ササン朝ペルシアの戦象

 

帝国となったローマの新たな挑戦者として現れたのが、現イランを領土としたペルシア人によるササン朝ペルシアだった。ゾロアスター教(拝火教)を奉じ、オリエントにおける覇権確立を目指したササン朝ペルシアの王たちは、騎兵を中心とした大兵力と共に戦象も運用した。この戦象はアケメネス朝ペルシアやセレウコス朝シリア同様、インドから輸入したインド象だった。二三二年、ササン朝の創始者アルタクセルクセスは、ローマ皇帝セウェルス・アレクサンデルの遠征軍と対決する。実際にはササン朝ペルシアが勝利したのだが、二十頭あまりの戦象がローマ軍に捕獲され、皇帝はなんとか面目を保ちローマに凱旋することができた。短命の皇帝だったゴルディアヌス三世は、アルタクセルクセスに対し限定的な勝利をおさめ、二十頭以上をローマの凱旋式に持ち帰る。元老院はこの時、オリエント戦役の最高勲章を戦象と戦象に引かせた戦車に定めた。騎兵戦術に優れたササン朝ペルシアだったが、ローマからは戦象が、その軍事力の象徴に見えたようだ。もっとも長い期間ササン朝ペルシアを治めたシャープール二世は、スサの叛乱を鎮圧するため、大量の戦象を市街に放ち廃墟とした。三六三年、ニシビス市を巡って対立していたローマ帝国皇帝ユリアヌスの侵攻に対しても、戦象部隊が撤退中のローマ軍に襲いかかり活躍する。五五四年、ホスロー一世はエデッサの要塞を攻略する際、鉄で装甲された櫓を担がせ、覆いをかけた戦象部隊を投入する。櫓には数名の射手が乗り込んでおり、城壁の上のローマ兵に対して矢を放った。戦象を攻城櫓として利用したこの戦術はセレウコス朝シリアでも行われ、しばしば成功している。このように戦象はササン朝ペルシアの軍事力の一翼を担った。

六三七年、ササン朝ペルシア宰相ルスタム率いる十五万とも言われる大軍は、サアド・イブン・アビー・ワッカースのムスリム・アラブ軍三万五千とカーディシーヤで戦う。三十三頭の訓練された戦象は、完全な防備が施されており、中央、左右両翼に三隊ずつ配置されてアラブ騎兵の突撃を防いだが、歩兵部隊の三〜七mもある長槍や矢の集中攻撃を浴びて壊滅した。アラブ人は、支配者であったササン朝ペルシアの戦象を見慣れており、象を見て驚愕のあまり敗走するなどということもなかったように思える。ここでも、戦象は決定的な兵科ではなかった。戦闘は中央を突破され、宰相ルスタムが戦死しササン朝ペルシア軍が総崩れとなったことにより、アラブ軍の勝利に終わる。同年、アラブ軍は首都クテシフォンを陥れ、六五一年にササン朝ペルシアは滅ぼされた。ちなみにササン朝ペルシアを倒したアラブ軍の信じるイスラム教の聖典、コーランにも戦象の記述がある。

 

コーラン第百五章(象の章)

慈悲あまねく慈愛深きアッラーの御名において 

あなたの主が,象の仲間に,どう対処なされたか,知らなかったのか 

かれは,かれらの計略を壊滅させられたではないか 

かれらの上に群れなす数多の鳥を遣わされ 

焼き土の礫を投げ付けさせて 

食い荒らされた藁屑のようになされた

 

象の章の記述はムハンマドが生まれる前年の五六九年のことで、アビシニア(エチオピア)総督の軍がメッカを包囲した際におこった事件だという。あまりに多くの戦象を含んでいたため、メッカの住民は、象の軍と呼んだらしい。この「焼き土の礫」が何を意味するかは不明だが、大軍が天然痘にかかって撤退したという説が有力である。また、おそらくは輸送用であるものの、西欧の十字軍やアラブ軍の間でも戦象が使用されたことが、当時の図版などからわかる。後に興ったシーア派のサファヴィー朝ペルシアでも戦象は運用された。

 

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