エペイロス王ピュロスの戦象

 

イタリア半島南岸に居住するマグナ・グラエキアと呼ばれていたギリシア人はローマの覇権を恐れ、ギリシア本土のエペイロス王ピュロスに支援を要請する。前二八〇年、アレクサンドロスの再来を気取る野心家ピュロスは二十頭の戦象と二万五千の兵を率い、イタリアに上陸した。ピュロスの保有する戦象はインド象だった。ピュロスは、幼少期、プトレマイオス朝エジプトで育ち、その戦象部隊を目にしていたため、戦象を装備することに熱心だった。ちなみに戦象に櫓を載せることを考案したのはピュロスだと言われている。ヘラクレアの戦いで戦象をはじめて見たローマ兵は、その巨大な姿に恐れをなし、騎馬も怯えた。浮き足立ったローマ軍にピュロスは騎兵を投入し勝利する。ローマ兵たちは、象を巨大な牛だと思ったらしく「ルカニアの牛」と呼んだ。第二回戦であるアウスクルムでは、ローマ軍も戦象に果敢に立ち向かい、苦戦を強いられるがピュロスは辛勝した。(この戦いから引き合わない勝利をさす言葉としてピュロスの勝利という言葉が生まれた)しかし、前二七五年、ベネヴェンツィウムの戦いでローマ軍も戦象に対抗する戦術を編み出す。松明を持った歩兵で象を脅しつつ、フォラリカという火矢で櫓を攻撃し、ピュロスとその戦象部隊を撃破した。こうしてピュロスの軍勢は何らなすところなく、イタリアを後にした。後にピュロスはギリシアのアルゴスを攻撃するが、失敗し自身も戦死した。この戦闘の際、ニコーン(勝利)と名づけられた戦象が、激戦の中、背から転落し戦死した自分の象使いを捜し出すと、二本の牙の間に主人の遺体を横たえ、敵味方問わず、立ち塞がる全てを踏み潰しながら道を戻っていったという逸話がギリシア人史家プルタルコスによって記録されている。

 

 

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