ムガル帝国の戦象

 

一五二六年、パーニパットの戦いでローディー朝を破ったティムールの子孫、バーブルは北インドを支配下におき、ムガル帝国を創設する。ムガル帝国軍は圧倒的な兵力の集中、騎兵の運用、砲兵部隊の大火力を特徴としたが、インド諸王朝の例にもれず戦象も運用した。ただ火器時代に入り戦象の巨体が格好の的になるため、アレクサンドロスを迎撃したポーヴァラの戦象のように、もはや大軍の先頭に立ち敵兵を威圧することは少なくなっていた。火器時代の戦象として特徴的なのは戦闘用と輸送用を問わず、銃砲の音や硝煙の臭いに馴らす、という新たな訓練課程が加わったことだろう。雄の戦象によって編成された突撃部隊の戦象には、ガジュナルという重マスケット銃を装備した狙撃兵を跨乗させるなど、火器の装備も進んだ。同時に火器に対抗するため、戦象の防備も大きく変化する。十六、十七世紀では、主に耳、頭部、鼻などを中に金属プレートを入れた厚手の布で覆い、弱点を保護するにとどまったが、十八世紀になると、チェインメイル(鎖帷子)で全身を装甲された大袈裟な戦象も現れる。鎧をまとった一部の戦象は、鼻で斧や剣、青銅製の重い球を自在に扱って敵兵と渡り合ったという記述もあるが、これは眉唾ものだろう。象にとって鼻はマニュピレーターであると同時に弱点でもあり、象が戦う際には、鼻をまるめこんで敵に突進するはずである。純粋な儀典用としてこうした訓練を施された戦象が少数存在したかもしれないが、実戦に耐えうるとは到底考えられない。減少した突撃部隊の役割に代わり、戦象は大重量の火砲や弾薬を運搬するという新たな輸送任務が割りあてられた。雌の戦象は輜重部隊や砲兵部隊に所属し、重砲を重んじるムガル帝国砲兵の機動力を高めるのに大いに役立った。三、四頭で大型の重臼砲を牽引し、一頭でも小型の砲を背部に搭載した。また、伝統的な用法である指揮官の望楼になり、兵の集合場所として軍旗が掲げられた。軍楽隊に配備され大太鼓の運搬にも使用されたという。当時最も多く戦象を保有していたムガル帝国でも、昔ながらの戦象の突撃が演じられることは少なかったが、例外もあった。三代目のアクバル大帝は、今までの慣例に反して象舎を作り、戦象を大量に飼育した。そして、ラジャスターンのラージプート諸王国との戦いに、三百頭の戦象を投入し攻撃させた。誇張気味ではあるが、戦象の大集団によっておよそ三万人が踏み殺されたという。

そして、ムガル帝国の黄昏の時代に戦象は劇的な活躍をみせる。弱体化したムガル帝国の周辺に割拠した様々な勢力の中で、強力だったハイダル・アリーのマイソール王国は一七八〇年、第二次マイソール戦争においてイギリス東インド会社軍に挑んだ。ハイダル・アリーの軍は、準備砲撃の後、戦象部隊を突撃させ、イギリス軍を蹂躙した。おそらく戦象による史上最後の集団突撃だったと考えられる。植民地化されていく非西欧の西欧に対する数少ない勝利が、時代遅れとなった伝統的な戦象突撃によってもたらされたのは、象徴的である。カーナティックのイギリス軍八千はこの後もハイダル・アリーの素早い進撃に分断、包囲され苦戦を強いられた。イギリス軍と互角の戦いをみせたハイダル・アリーのマイソール王国だったが、息子ティプーの代に善戦空しくついに滅ぼされる。インドを征服したイギリスは、植民地戦争で、多数の戦象に本国から持ち込んだ最新式の砲を牽引させた。ムガル帝国の戦象たちは、新たな征服者に仕えることになったのだった。 

 

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