6 シナの火器はなぜ発展しなかったのか 

 

 北宋末の黎明期を経て、金や元、南宋など様々な王朝が乱立した300年間に火器は発展し、様々な形をとった。世界初の完成した火器と言える火槍や火球などの燃焼性火器(ニーダムは噴火器と呼称した)の他、震天雷や金属製管形火器など、爆発力を使用した火器も多く誕生した。北宋末の騎馬不足による防御戦略への転換の下、北方騎馬民族に対抗するための防御用の切り札として使用された火器だったが、モンゴルが火器を手に入れると今度は、城塞を攻略する際の重要な兵器となった。火器の黎明と発展は城塞に拠る防御側(北宋、金、南宋)と攻城側(金、モンゴル)との度重なる戦闘の中で起こったものと言える。その歩みは、決して急激な発展とは言えないものの、それなりに緩やかな進歩をみせていると言える。この時点までは一応順調であったシナの火器発展だが、その後、重大な躓きをみせる。銃と火砲の未分化である。大型の銅製火砲を守城、小型の火砲を野戦に用いるということはあっても、個々の兵士が用いる火器は機構的に火砲と変わらない銅手銃で止まっており、兵士が個人で用いることを主眼においた銃は、とうとう開発されなかった。

その間に、西欧はシナから流入した火器を元に火砲と火縄銃という砲と銃の分化を成し遂げ、もとの発明者であるシナを抜き去ってしまった。このような状況はシナの兵書にも表されている。明代初期の火器についての兵書である「火龍神器陣法」には、独自とも言える40種類近い火器が紹介されている。うちわけは、爆裂弾5種、銅製管形火器6種、火箭4種、火槍5種、盾など火器と併用されるもの4種、車両で運搬する重火器4種、水上戦用火器6種、その他2種になる。ある程度までマニュアル化された火薬配合の仕方も様々なものがあり、それぞれ決められていた。緩慢ながらも進歩を見ることのできる火槍や銅火銃、震天雷や近世西欧の兵器の原型となった地雷や水雷など、進歩している火器が見受けられる。百子連珠砲という砲は、銅鋳の四尺程の大砲に一升五合の薬を入れ、鉛弾100を詰めて発射する散弾砲のようなものだった。また火槍も発展しており、沖鋒神火胡廬は瓢箪型の鉄製の器に毒火一升と鉛弾を詰め、長時間の放射を可能にしたものだった。さらにこれを改良し、三連式にした飛天神火毒龍槍、神機万勝火龍刀なども開発された。また、鉄火砲や震天雷の後継である八面旋風吐霧轟雷砲は、鉄の球状の器の中に火薬と多数の鉛弾を仕込んでおり、18世紀のヨーロッパの手榴弾、グレネイドに酷似している。さらに鉄の容器に五升或いは三升の火薬を詰め、導火線を通し、土中に埋めた地雷の原型なども見られる。

反面、どう考えても実用に耐えないような火器も多数記載されている。例えば、火獣飛車砲散形という車上に中が空洞の獣を型どった木像をおき、木像の中には二十四の火器が仕込んだ兵器があった。「口から炎や毒煙、火箭などが発射される」というこの記述によると、異なった種類の火器を同一線上から射撃することになる。こういった方式だと各火器の射程が異なったり、弾体や火箭の補充が煩雑になるため、使い勝手が悪い。他にも様々な異常な兵器が存在した。木人火馬天雷砲は、人型の木の人形に、爆薬一斗、毒火(毒物入りの火薬)一斗を詰め、それを馬の上にくくりつけ、馬の尾の葦に火をつけて敵陣に放すというものだが、味方の陣に誤って飛び込んでくることは容易に予想される。また、破陣猛火刀牌という三十六筒の火薬を詰めた筒を盾に内蔵し、炎が三、四丈吹き出すという火器も見られるが、防御用の盾に火薬を装備しても有効とは考えられない。重量がかさむ上、敵に火箭などを打ち込まれた場合、誘爆してかえって危険である。これらは実戦の記録でも登場しない。おそらく試作段階かペーパープランで終わった火器なのだろう。しかし、これらの兵器の説明の文末には、なぜか「絶大な威力を誇った」と記されている。他にも、火薬に毒物を混入することに固執し燃焼効率を下げている点が散見される。火薬の中では、毒物を含有したものが、全体のかなりを占めており、火薬の配合に関する章では当たり前のように、毒物を混入している。しかし、たとえ毒煙を発生させるためでも、何でもかんでも混ぜ合わせるのが有効ではない。不純物を増やし、結局、燃焼や爆発効果を減じてしまうことになる。それにもかかわらず、毒物を火薬に混入させたのは、本書に解毒薬の章があるように、シナでは文字どおり、火薬を「火の薬」と考える伝統のためかもしれない。「火龍万勝神薬 石黄四両 雄黄四両 雌黄四両 廬花四両 松香四両 銀杏葉 乾糞四両  巴霜四両 硝火七斤 硫火三斤 灰柳5両」「毒火薬 鉄脚砒四両 乾漆四両 松香四両 雄黄一斤 石黄四両 硝石六斤 硫火 二斤 杉灰 柳灰 各四両八銭」「烈火 銀杏一斤 豆末一斤 石黄三両 雄黄三両 硝七斤 信三両班毛四両 硫二斤 柳灰 各九両 三銭三分 硫一斤」などがその例である。

また、火器を分類することなくただ羅列しており、実戦の記録や詳しい操作法については、ほとんど触れられていない。この火龍神器陣図に紹介されている火器や火薬の配合法などは、あまり変化せずに明代兵書の集大成である「武備志」や西欧型火器が大分普及した清代の「防守集成」にも見られた。さらに、これらの兵書には共通して、分類や具体的な運用法の記述が欠如している。西欧が砲と銃の分化を達成し、火砲と火縄銃を発展させたのに対し、シナでは、火器の種類のみが、むやみに増え続けたのである。(確かに、西欧においても、発想だけが先行した奇形火器も存在したが、それらは全て淘汰されていった)15、6世紀を境に西欧の火器は縦型(主に火縄銃と火砲という限定された2種の火器の発展)シナの火器は横型(宋、金、元代を基礎にした火器の種類の増大と小規模な改良)という二つの流れを形成したと言える。では、なぜ、西欧が火器の縦型の発展を遂げることができたのか。それには西欧特有の事情が存在した。当時のヨーロッパは様々な都市国家や諸邦が林立し、互いの勢力を拮抗させていた状態にあった。その中で火器を生産する様々なギルドは火砲や火縄銃を生産し、様々な勢力に輸出した。例えば、16世紀中頃まで西欧における火砲生産の主要な部分を占めたフランドル、ドイツ、イタリアといった地域は、当時、スペインの支配下にあった。しかし、これらの地域は敵のはずのイギリスにも火砲を輸出していた。また、イギリスは1574年に自国の鋳鉄砲が諸外国の手に渡るのを防ぐため、輸出規制布告を出した。しかし、布告にも関わらず、イギリス製火砲は、オランダやデンマーク、1583年には当時敵対していたスペインにすら密輸出されていた。その後、17世紀になり、絶対王政が確立され国家の形が整い、ようやく不正売却、密輸出などが減少し、火器は国家産業として保護育成されるようになる。領土紛争、宗教戦争、海外での植民地獲得戦争に明け暮れる各国は軍拡に奔走し、より高性能で量産可能な火器の開発に血道を上げた。このような西欧の状況とシナは全く異なっていた。

シナではすでに中央集権が早くから確立し、火器の生産も一元的に管理されていた。すでに北宋において、皇帝の勅令(1067年)により、火薬の主成分である硫黄、硝石の民間における商取引は禁止されており、都市の中の手工業制地帯には兵器の製造所である軍器監が設置されている。政府が直轄した軍器監には、火薬作、金作、木作等、多くの部門が存在し、分業体制が確立されていた。シナでは早い時期から火器の生産は、国家の独占産業だったのである。このような状況下では、火器を生産するギルドの競争状態など起こりようにない。高度で大規模な管理体制は、火器の大量生産を円滑にしたが、同時に従来の火器が旧式化してしまっても、素早く新型火器に切り替えることができないという弊害を生んだ。それは、明代に西欧火器が流入しても、シナではそれらを進歩させることはなく、むしろ粗悪なデッドコピーを生産するのに止まったことからも言える。(シナに滞在したマテオ・リッチ神父は手記の中で、「軍に支給されている火器は、敵に対する攻撃、あるいは自衛のためにも実用価値がない」と述べている。)また、過度の秘密保持のため、土木の変の際のように兵士が使用法を訓練されていないという冗談のような事態まで引き起こされた。王朝による火器の独占の他にもシナには、西欧とは全く異なった事情が存在した。それはシナをとりまく軍事的環境である。シナ各王朝の軍は伝統的に北方騎馬民族と農民反乱を主敵としていた。当初の装備が貧弱な農民反乱軍も北方騎馬民族も火器を自前では保持していなかった。使用したとしてもシナ王朝からの捕獲、投降軍による使用であった。シナにとって本格的に火器を装備した敵は、アヘン戦争のイギリス軍を除けば、倭寇、秀吉の日本軍と小規模なロシア軍程度だった。統一されたシナを中心とした中華システムの中では、西欧のように各国が火器の開発にしのぎを削るという状態は考えられなかったのである。(例外的に南宋、金、元が興亡を繰り広げた時代に火器の開発が頻繁に行われているが、だからこそ、この時代に火器の黎明期が訪れたと言える)シナは15、6世紀以降、西欧と相対するまで、火器を装備し、切磋琢磨するような主敵が存在しなかった。 

以上のようなシナと西欧の国家システムや軍事的環境の相違と共に、軍事や科学技術に関する思考の違いも火器の発展に大きく影響している。元来、儒教が重きをなす文治主義のシナには「好人不当兵」と言われたように軍人の地位は低いものだった。特にそれは明や清の後期に顕著であった。「軍人は彼らの間で卑賎なものと考えられていた四つの身分の一つである」とマテオ・リッチは書簡の中で述べており、兵士は下級の職業とされていた。それは岳飛や戚継光などの名将と言われる軍人すら、貧しい家柄の出身であることからも伺える。また、軍の指揮官が文人官僚から選出されることも往々としてあった。何度と無く戦争が起こり、各王朝が膨大な軍事力を抱えていたにもかかわらず、軍事や兵士が軽んじられているというのは、いささか奇妙に思える。しかし、それほど、シナでは儒教の文治主義が根強く存在した。この伝統に根付いた儒教的価値観は西欧の火器を取り入れる段階における決定的な障害物にもなった。ル・コント神父は「皇帝からの特別な命令でもないかぎり、彼らが新たな道具を用い自分たちの古い道具を手放すことはない」「彼ら今様の最も完璧なものよりは昔の欠陥のあるもののほうを好み、その点で新しいもの以外は愛さない我々(ヨーロッパ人)とは大きく異なっている」と述べており、文人官僚の保守的な態度を指摘している。

伝統的な科学も同様であった。シナにおいては決して技術者の位置は低くなかったし、その科学技術もニーダムが「シナの科学と文明」などで、主張しているように高水準にあった。しかし、シナの科学は経験則的な積み重ねの上に形成された色合いが強い。それは「シナの科学文明」で薮内清が指摘しているシナにおける幾何学の欠如などからも言える。「九章算術」など高次の数学書を前漢時代に著し、複雑な立方体の体積計算なども行われているのに、図形に対する定義や図形一般に共通する性質を追求することもほとんどなされていない。薮内清は結論として「初めに、定義、公理があり、証明が行われる幾何学が存在しなかったため、シナに論理的形式学は育たなかった」としている。このことから、シナにおける科学には論理的な積み重ねが弱かったように思われる。論理が弱く、経験則が強いとなると火器の開発においても、どうしても旧来の火器に漸次的に改良を加える程度か、思いつき的な部分から奇抜な火器が開発されるかの両極端のどちらかになり、西欧のように段階的な発展を遂げることは難しいだろう。また、火龍神器陣図など、分類や具体的な運用法が欠け、整理が為されていないというような兵書の傾向も論理学の欠如という面から見れば納得がいく。

 以上のように、シナにおいて火器が発展しなかった理由が幾つか上げられるが大別して二つに分けられる。一つは国家体制や軍事環境などの状況面である。シナでは中央集権が早くから成立しており、火器もその過度に厳重な管理体制下にあったため、西欧のように、国家権力の弱さゆえの個々の生産地域による競争が起こらなかった。そして、狭い地域で似たような科学、軍事水準を持つ多数の国家がひしめき、競合していた西欧とは反対に、広大な地域を一つの権力で統制し、周辺にもその影響を及ぼしていたシナには、火器を装備した同水準の競合相手がほとんど存在せず、火器の強化は西欧程切実な問題ではなかった。(火器が北方騎馬民族に対する切り札であったにせよ)今一つは思想面である。儒教を基礎とした文化形態を持ち、文人官僚が重んじられるシナでは、総じて軍人や兵の地位が低く、軍事問題も軽視されがちであり、発展や道具に頼る思考を嫌う傾向の強い保守主義のため、新しい火器を上手く導入できなかった。さらに、高水準を誇った科学技術も論理的な部分が弱く、どちらかと言えば、経験を重視したものであるため、西欧のような段階的な発展を遂げるには力不足だった。これら様々な要因が複合したため、シナでは、西欧のような火器の大発展は起こらなかったと考えられる。

広大で豊かな国土、高い技術を持ち、早期に中央集権を完成させた社会は、決定的な武力を手にすることができず、逆に貧しく狭い地域に国々が密集し、戦争に明け暮れた社会が、結果的に性能の良い火器と強力な軍隊を作りだして世界を制した。シナが最初に火器を作りだしたにも関わらず、数百年後、西欧に追い抜かれるばかりでなく、西欧の火器でもって、その文化や価値観までも変化を強いられる羽目に陥ったというのは何とも皮肉な話である。結局、シナの火器は発展せず、シナが世界を制することはなかった。西欧とは違った流れを持つ科学技術は主流とならなかった。

現代に生活する我々は科学技術の発展が当然であるかのように思いこんでいる傾向がある。だが、これは西欧の近代システムが、世界に広がってからのごく新しい考え方であろう。科学技術は、その国家なり地域なりの持つ体質や周囲の状況に左右され、結局の所、社会が必要と判断しなければ発展しない。高度な外科手術や工芸品を生み出した南米の文明……アステカやインカの兵士は棍棒程度しか持っていなかったし、国内を統一した日本は火縄銃をしまい込んだ。

科学技術は政治的、軍事的状況によって育つ植木のようなもので、環境が整わず放っておいても勝手に育つことはない。科学技術とは実のところ文化の一種に他ならないのである。

逆に考えれば、西欧と比較し、最終的には劣ってしまった他の地域の科学技術や火器の在り方自身が、その社会、文化、文明を形成した環境を浮かびあがらせる重要な手がかりになると言えるだろう。

 

 

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