5 清代の火器使用とその戦術  

 

 清は当初、火器を保有していなかったが、明との度重なる戦闘から、その重要性を学び、使用することになる。投降した明の砲兵部隊を天佑軍、天助軍として活用する他、天聡五年(1631年)には、清軍は捕虜から学び、紅衣砲を製造した。紅衣砲の優秀性は清軍でも認められ、大凌河城を下してから、必ず携行するようになった。順治二年、撞関を火砲の大量集中運用で攻略する。以後陽州などで、大量に使用された。これら清の火器は紅衣砲や鳥銃であり、明軍から受け継がれたり、外国人宣教師が製作したもので三藩の乱の時にも活躍した。清朝は北方出身の王朝であるため、国境の城塞に重砲を配備する必要性が無く、また、伝統的な騎兵重視の姿勢のため、一時期火器の配備は低調となったが、ロシアやジュンガル部との戦闘でも見直された。

清朝は黒竜江流域に入植地を保持していた。だが、度々ロシア軍(だが、1000人前後であることから、本格的な軍というより武装調査団のようなものかもしれない)が居留地を脅かしたため、交戦し、撃退している。康煕二十二年(1683年)九月、ヤクサを占領したロシア軍に対し、反撃が開始された。途中の拠点を攻略した清軍だったが、ロシア軍は援軍を呼んだ。1685年5月二十二日、清軍は3千人の兵力でヤクサを包囲した。ロシア軍450人(火砲3、鳥銃300丁)が降伏勧告をうけいれなかったため、二十五日、清軍は紅衣砲を使用し城を攻略した。1686年7月にも同様の事件が起こり、清は千人余を派兵して、ロシアが再占領したヤクサを陥落させた。その後、1689年、7月24日にネルチンスク条約が締結され、国境が確定された。

しかし、ジュンガル部のガルダンはロシアと連絡をとりつつ、ゴビ砂漠北部を奪い、ハルハ部など制圧した。1690年、6月康煕帝は親征を決定し、大軍を率いて出征した。鳥三布通の西に展開したガルダン軍は駱駝部隊で円陣を組んで対抗したが、清軍は火器部隊に砲撃を行わせた後、歩騎兵を突撃させ、勝利を得た。康煕帝はこの鳥三布通の戦闘を重視し、1692年、三月、補給部隊と在満蒙八旗兵中に正式に火器営を設立させ、鳥銃や火砲を重視した訓練を施した。こうして清は、騎馬兵力が中心であったのにも関わらず、明末の火器装備率(50パーセント)をしのぐ、60パーセントを占める火器装備率を達成する。火器部隊も拡充され、明代の神機営や車兵部隊同様、清代でも火器営や烏真超巴(満州語で重軍。砲兵の意)が編成された。さらに、火器のみならず、爆破技術を広範に応用し、熟練した専門技術が求められる工兵科に相当する土営も出現した。

清は明を打倒するためや、三藩の乱などの際には、宣教師などに火砲を鋳造させ、積極的に活用したが、その後は、ロシアとの小競り合い(どちらかと言えば物量で押し切った印象がある)や火器を見たことのないジュンガル部の征伐などにしか使用されていない。清の鳥銃や火砲には目立った改良はなく、明末の水準をほぼそのまま受け継いでいる。また、清朝そのものと交戦したわけではないが、この時代で注目すべき事件がある。1661年の鄭成功の台湾攻略である。1661年、鄭成功は台湾攻略を開始した。鄭成功の軍艦はおおよそ二門の火砲を積載しいたが、オランダ軍は四隻の甲板船を持っていた。またオランダ軍兵力は1500人、鄭成功側は4千人と、土着の兵が1万人程度だった。また、台湾城には南北両面に十門ずつの大型火砲が据えられていた。4月12日に鄭成功は28門の火砲をもって攻撃したが、城の大砲との砲兵戦になり撤退した。結局、鄭成功軍は包囲して水源を絶ち、海上からの解囲軍を撃破することでオランダ軍を降伏に追い込んだ。

1662年2月1日に台湾は鄭成功の手に落ちた。鄭成功の用意周到な作戦準備、徹底した偵察や敵の虚をついた強襲上陸、オランダ軍に反感を持つ現地住民や黒人奴隷までも取り込み、後方撹乱への利用、海上からの援軍を艦艇の数量的優勢で打ち破る等、戦術、戦略面で非常に高いレベルの作戦を成功させた。しかし、大型火砲が据えられた台湾城を正面からの攻撃で落とせず、包囲し、水源を絶ち、ようやく陥落させたということは、オランダ軍の火砲の優秀性が明かになったとも言える。また、艦艇同士の海戦でも個艦性能においてはオランダの甲板船が遥かに優越していた。鄭成功の台湾攻略は、植民地駐留軍に対する数少ない勝利の例かもしれないが、逆に言えば、綿密な計画と地の利、膨大な兵力がなければ、植民地駐留軍を駆逐することは難しいということが言える。火砲と帆船の西洋の優越は、この時点で、かなり高いものであったと言わざるを得ない。それは後の阿片戦争において明確となる。

 

     

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