4 明代の火器使用とその戦術  

 

 15、6世紀に西欧で火器とそれに伴う爆発的な進歩があった時代、シナでは明朝が栄えていた。この時代における火器の進歩はどうだったのだろうか? 

明朝は初期の頃から火器を重要な兵器とみなし、朱元璋がシナを再統一し、明朝を興すまでの過程でも様々な火器が使用された。ほとんどは、元軍から接収したり、その生産施設を使用して作られたと思われる。「明太祖革命武功記 平漢陳友諒記 巻四」の「1363年4月 江州を拠点とする陳友諒は三千人を積載した大型外輪艦の艦隊でもって番陽湖湖畔の朱元璋の拠点、洪城を攻略しようとした。その際、陳軍は城壁を破壊し、侵入しようとしたが、朱軍は火砲や火槍を使用し、城壁の修復を援護させた」という記述などから朱元璋の軍が火器を活用していたことが伺える。これらの記録には火銃とあるが、おそらくは元代の銅手銃と同じものだろう。実際、現存する最古の銅手銃として洪武5年(1372年)の銘が入ったものが存在する。朱元 は火器が敵対組織や元に対し有効だったことを認識し、明朝成立後に専門の部隊を創設した。その部隊は神機営という形で成祖永楽帝の時代にはっきりとした形をとる。神機営は「明史兵志4年」に記されたヴェトナム侵攻が契機となって設置された。「永楽五年(1407年)交趾(ヴェトナム)侵攻のおり、神機銃砲の使用法を特別に神機営を創設して学習した。ヴェトナムでは火器は集中使用され、象兵を大いに撃滅した。故に永楽5年(1408年)、京師に専門の神機営が設置された」この神機営は皇帝の直率である京軍三大営の一つであり、火器による戦闘の他、火器の製造、教導の任務まで実行した世界初の総合火器専門部隊であった。明朝の軍事制度は、中央に五軍都督府を設けて、それぞれの衛所に軍を駐屯させ、中核には京師26衛を置くものだった。(総兵力200万)永楽帝は、その上に皇帝の直率である京軍三大営(歩騎兵混合の精鋭である五軍営、異民族の騎兵部隊の三千営、火器専門部隊である神機営)を創設した。また、明は野戦における火器の展開のみならず、旧来の火器の使用法である城塞への配備にも熱心であった。明史・兵志によると銃砲は「大小は等しくなく、大は車載して用い、次に小さい物は砲架、杭、支えなどで固定する。大は城塞防衛、小は野戦において随時使用する」ことが定められており、当初から火器を分けて使用するつもりだったことがわかる。

 

明における火器の専門書とも言える火龍神器陣法が、永楽10年(1412年)発行された。「火器40器が明の朱元璋に献上された。それにより、朱元璋は火器の重要性を知る」と太祖が火器を重視していたことを巻頭にあげた基本的に大量の火器のカタログとなっている。この火龍神器陣法は、明代前期に記された書物で、明太祖時の都督、神機営を統率した、焦玉によって書かれた。焦玉は火器の伝習などにつとめ、その功績により、「東寧伯」に封じられた。この頃は、まだ、後の主力兵器となる西欧伝来の仏郎機や鳥銃は存在していないため、純粋なシナ独自の発想による火器を見ることができる。この頃の火器で特徴的なのは種類の多さと共に、毒物を含有したものが、全体のかなりを占めている点だろう。それは本書の中に解毒薬の章、火薬の配合に関する章では当たり前のように、毒物を混入していることからもうかがえる。しかし、何でもかんでも混ぜ合わせるのが有効であるはずがない。不純物を増やし、結局、燃焼や爆発効果を減じてしまうことになる。

 

幾つかの火器をピックアップしてみる。

 

木人火馬天雷砲 

人型の木の人形に、爆薬一斗、毒火(毒物入りの火薬)一斗を詰め、それを馬の上にくくりつけ、馬の尾の葦に火をつけて敵陣に放す。

 

火獣飛車砲散形

車の上に木型で中が空洞の獣を型どった木像をおいた。木像の中には二十四の火器が仕込まれ、口から炎や毒煙、火箭などが発射されるようになる。四人で運搬した。

 

八面旋風吐霧轟雷砲

鉄火砲、震天雷の後継。鉄の球の中に火薬と鉛弾を仕込んでいる。18世紀のヨーロッパの手榴弾の原型、グレネイド(ザクロ玉)に酷似している。導火線が中央に仕込まれていたらしい。だが、着発瞬発式かもしれない。

 

単飛神火箭

射程、300、400の火箭。銅で作られた3尺程度の筒に火薬がつめられ、それが矢の根についていた。

 

九矢金賛心神毒火雷砲

銅筒の中に毒火と矢を入れ噴射した。

 

破陣猛火刀牌

三十六筒の火薬を詰めた筒を盾に仕込み、導火線で点火。炎が三、四丈吹き出す。

 

沖鋒神火胡廬

瓢箪型の鉄製の器に毒火一升と鉛弾を詰めたもの。火槍の発展型。

 

飛天神火毒龍槍

上述の火槍と同様。ただし、三眼銃のような三連式

 

神機万勝火龍刀

火槍、ただし、使い捨てるたびに、その部分を折っておく。

 

神飛独角火龍船

火器装備の艦艇、両舷11

 

八面神威風火砲

銅製の三尺の銃身で台車に据え付けられて360度回転することができた。射程は200から300歩前後であり、3名で操作した。いわゆる子砲があり、そこから火薬を装填したらしい。元代の銅手銃を大型化したものか?

 

四十九矢飛廉箭

竹で編み、周囲に紙を貼った篭に、四十九本の火箭を入れ、一斉に点火して発射した。

 

飛空滑水神油缶

桐の器に油を入れて蓋をし、投擲して、敵船を燃やす、火炎瓶

 

水底龍王砲

鉄で作られた砲を袋に入れて、防水し木板に載せ、浮きをつけて偽装し、暗夜、上流から流す。中には木板に固定し完全に水中に沈めてから使用するものもあったが、図を見る限り役に立ちそうもない。

 

天敵地雷砲

鉄の容器に五升或いは三升の火薬を詰め、導火線を通し、土中に埋める。

 

穿山破地火雷砲

銅で鋳造された砲身四尺に火薬五升、鉛子三斤あるいは鉄で鋳造された椀に一升の火薬と鉛弾を入れて発射する。

 

神火万全鉄囲営

防御用。棚のような盾を作り合間から射撃。 

 

天兵拒敵神牌

牛皮を膠で固め鉄枠で囲った盾

 

渡水神機砲

いわゆる爆導索。

 

隔河神捷火流車

火牛車両

 

百子連珠砲

銅鋳の四尺程の大砲に一升五合の薬を入れ、鉛弾100を詰めて発射する。

 

焼火天猛火無欄砲

不明 火槍の一種?

 

飛雲霹靂砲

霹靂砲を母砲に入れて射撃する。

 

万勝神毒火屏風

かなり強固な屏風を大型の八輪に載せて、そこに火器を載せて射撃。逆風によって発射煙を防ぐことが考慮されていたらしい。

 

爛骨火油神砲 火炎瓶のようなもの

 

神仙自発排鋭 大型の盾 

 

毒龍噴火神筒 竹製火槍

 

神火飛鴉 

鳥型の張りぼての形を紙で作り、それに数本の火箭をつけた物。城を焼きはらう時に使用した。

毒霧神煙砲 少量の火薬の爆発力を利用し、毒物まき散らす。筒上の砲から直接噴霧している。

 

埋薬火筒

満天煙噴筒 砒素や石灰などのその他毒物を噴霧する兵器。水上専用

   

火妖 紙を拳大に固め、松脂や毒物を混ぜて投擲した。霹靂砲などの簡易型

火蜂窩 紙を糊で百層ほど重ね、十層目くらいに、小砲を内蔵し、様々な毒物を混入した。軽いためか、水上戦用であった。

以下はそれらの火薬の配合をまとめたものである。

 

火龍神器法薬

硝石 硫黄  灰 柳灰 杉木 禅灰 胡灰 石黄 雌黄 麻灰

 

火龍万勝神薬

石黄四両 雄黄四両 雌黄四両 廬花四両 松香四両 銀杏葉 乾糞四両  巴霜四両

硝火七斤 硫火三斤 灰柳5両

 

毒火薬 

鉄脚砒四両 乾漆四両 松香四両 雄黄一斤 石黄四両 硝石六斤 硫火 二斤

杉灰 柳灰 各四両八銭

 

烈火

銀杏一斤 豆末一斤 石黄三両 雄黄三両 硝七斤 信三両 班毛四両 硫二斤 柳灰 各九両 三銭三分 硫一斤 

 

飛火

廬花と桐油十斤 松香三斤 豆黄半斤 銀杏半斤 乾糞半斤 硝七斤 硫二斤 若灰

樺灰 柳灰五両 班毛一両 石黄四両 

 

法火、爛火等。

 

通常に使う火薬でも細かく分けられる。

夜起火薬 日起火薬 起火薬 火信

 

噴火薬 硝二両 黄四銭半 桐油の灰三銭半

砲火薬 硝一斤 硫六両 胡箸灰三両 黒砒三銭 

 

神火(火炎?)

毒火(毒物をまぜたもの)

神沙(砂等)

これらを噴出させる金賛風神火流砲・・・火槍か?

 

大砲用驢駄入 飛火五升 毒火五升 神沙一升 

中砲則母砲発居 毒火五升 飛火半升

小砲(投擲用?) 毒火三合 飛火三合 神沙一合 

 

 

「これらの薬品は木臼を用い、細かく砕き粉末状にして混ぜ合わせる」

「これらの薬は専門に選ばれた者以外、取り扱うことを禁じる」という注意書きが存在した。

 

永楽10年、明成祖は詔勅を下し、宣府、万全など北部の重要防御地点の諸山頂に5砲架をおかせ、防御を強化した。さらに、明朝が火器の重要性を再認識する事件も明中期に起こる。1449年の土木の変とそれに続く北京の戦闘である。

土木の変は正統14年(1449年)明との貿易交渉がこじれたため、オイラートのエセンが侵攻したことにより引き起こされた。この時、絶大な権力を持っていた宦官(司礼大監)王振はオイラートを軽視し、英宗正統帝に親征をすすめた。相継ぐ守備軍の敗報にも関わらず、親征は強行されたが、陽和まできた所で壊滅した明軍を見た王振は怖じ気づいて撤退を開始してしまう。その途中で水源の無い土木保に駐屯した所をオイラートに包囲され、壊滅する。王振は混乱の中死亡、英宗も捕虜となり、重臣や将軍が50人以上戦死するという前代未聞の敗北を喫した。この土木の変では、無計画な王振の作戦のため、大軍の無理な行軍、水源の無い土木保を根拠地とした等、様々な失敗要因があった。その中の一つに火器の威力が発揮できなかった点もある。武庫から80余万の兵器が出されたが、これら火器の操作法を明軍の兵士は習熟していなかった。その上、水源を求めて移動中にオイラートの奇襲を受けたため、陣形は混乱し、大量の火器の威力を振るう間もなく潰走し、大量の火器はほとんど遺棄されてしまった。ここで野戦における火器は、移動中を騎兵に急襲されると、有効な反撃ができないという欠点を露呈することになる。その後、オイラートは北京まで進撃するが、今度は体勢を立て直した明軍により迎撃された。「武庫算略巻七載」によると「土木保で、皇帝英宗を捕虜にして大勝利を得たオイラート軍だったが、辺境の城塞を攻撃するのに、手間取ってしまった。その間に明は王振一派を粛正し、兵部尚書干謙を中心とした主戦派が景帝を擁立し、北京の死守を決定した。その際、南京の兵器庫から三分の二程、兵器を搬入し、土木保で遺棄した火器、火銃1万1千、火箭44万、火砲800門を回収した。さらに、居庸や紫刊関、大同、宣府に兵を増派し、地雷を敷設し各種火器を配備した。正統十四年十月二十七日、楊洪等が命令を下し、地雷を爆発させ、銃火を浴びせ、オイラート軍を撃破した」北京防衛戦の勝利は、城塞に篭った防衛戦であることと、比較的明軍の士気が高く、指揮系統も再編されたこと、オイラートが油断していた点などが上げられるが、最も大きな要因は大量の火器を円滑に運用したことにある。明軍は城内から城外にかけて、大量の異種火器を配備し、歩兵隊は手銃4丁を基本装備としており(明英宗録 184巻 豊城候李賢らの進言による)騎、歩、砲、弓の密接した縦深配置を形成していた。この北京の戦闘後、火器の重要性がさらに認識され、火器の装備率は大幅に上昇する。

明軍の火器隊の基本構成は、土木前は、毎隊五十五名、弓箭手三十名、槍手十名、旗手三名、正副隊長から成っていたが、土木後は、火槍手十、盾手五、火箭手十、火砲手八、その他、七という火器重視の編成に転換された。また、兵部尚書干謙は火器の研究を熱心に進め、火器戦術に改良を加えた。例えば敵陣に相対した時はまず、爆竹等を鳴らし、こちらが発砲し、火薬が切れたと誤認させ、敵の突撃を誘った。そして、敵が肉薄してきたその時に火器を斉射した。大将軍砲等の大型重砲を放ち、火器によって敵陣形を崩壊させた後、歩騎兵を突撃させた。(少保干公奏議第2巻)明初期は「利器を人に示すべからず」「火器外造、伝習の漏泄を恐れる」(明史兵志4年)という配慮により、神機営や重要拠点以外に、一般部隊には火器が配備されていなかった。しかし、干謙は何度も申請を重ね、火器を他の部隊に配置させることに成功した。干謙などにより火器の細かな戦術が発案され、兵書にも、役だったかはともかく、実に様々な火器が記載されている。

 

明代後期にもなると、火砲(仏郎機)と火縄銃(火銃)の2種の火器が流入してきた。明史仏郎機伝によると嘉靖二年(1523年)3月に新会の西草湾でポルトガル船との戦闘の末、船を捕獲し、大小二十門の火砲を手に入れ、副使の江金宏がそれを献上した。この火砲を仏郎機と称したのは、当時、西欧人のことをフランクと総称していたためであり、西欧式の火器は全て仏郎機と呼ばれた。早くも嘉靖九年(1530年)には大小の2種を鋳造している。一方、火縄銃(明は鳥銃と呼んだ)の伝来だが、どういうわけか、仏郎機が西草湾での戦闘で捕獲されたにも関わらず、火縄銃を捕獲したという記録は無かった。 

海図篇によると嘉靖二十七年(1548年)に倭寇を捕らえ、その中に鳥銃に精通した者がおり、そこから鳥銃の製造を学んだとされている。同様の記述は「練兵実記」にも見られ、鳥銃は一足先に火縄銃を取り入れていた戦国時代の日本から伝わったと見て良いだろう。鳥銃の威力が実証されたのは、壬辰丁酉の倭乱(文禄慶長の役)の日本軍が朝鮮に侵攻した際であった。(明や朝鮮軍は銅火銃や震天雷を装備していたものの、鳥銃は未装備だった)日本軍の火縄銃隊の威力を思い知らされた明は、鳥銃の拡充につとめた。そして、流入した西欧の火器は次第にその優秀性を明らかにしていく。

 

明代の優れた名将であり、倭寇の討伐に活躍した戚継光は、紀効新書と練兵実記という洗練された軍事書を著しており、「練兵実記」雑集巻一の中で「諸器の中には鳥銃を第一とし、火箭これに次ぐ、南方は則ち大砲、火箭、鳥銃をみな利器とす、余りは則ち舟師、守城に同じく施すべきにして陸戦によろしき所にあらず」「百以上火器があるが、どれも戦守に切せず……ただ子母砲(仏郎機などの銅砲)がふさわしい」と主張している。実際、練兵実紀の雑集五の火器の章でも火砲、鳥銃、火箭程度しか扱っていない。これらのことを見れば実戦で使用に耐え、主力となりうる兵器は西欧流入の火器にシフトしたと言ってよい。兵書に見られるような発想だけが先行した火器や旧式化した銅手銃は、無用の長物となりつつあったのである。そういった変化の中で、これら火器を使用した明独自の車営戦術が誕生する。車営とは車両に載せた火砲を中心に、その周囲を小型火器装備の歩兵が展開する対騎兵用戦術であり、明史・兵志によると土木の変で戸科給事中、李侃がオイラート騎兵に対抗するため、初めて考案した。それをさらに改良したのが、戚継光や後の孫承宗の車営戦術だった。

戚継光が率いた車兵の編成は1両の単位が1宗であり、仏朗機2門(子銃18、弾丸200発、火薬600斤、火縄10)鳥銃4丁(薬官120、火薬24斤、弾丸1200発、火縄20)火箭120であり、兵員が約20名となっていた。

 4宗で編成されるのが局、4局で編成されるのが司、4司で形成されるのが部、2部で形成されるのが1営に相当する。この1営で128車、砲は256門、鳥銃は512丁を数える。戚家軍は車兵の他にも騎兵や歩兵に火器を装備していた。ここで騎兵とあるが騎乗したまま射撃したのか、一旦下馬して、味方の突撃を援護したのかは分からない。歩兵も騎兵同様の編成がされているが、藤牌手(盾)や狼先手(槍)など歩兵用の武器を装備している。なお鳥銃は、一隊につき1丁が配備されていた。

 戚継光の車営戦術を受け継いだのが、孫承宗である。孫承宗は、喜宗天後年間(1621〜1627)後金が遼東を攻略した後、兵部尚書兼東閣大学士督として、山海関、薊、遼、天津などの軍務をつとめた。着任後、軍を整備し、砲台を築き、火器部隊、騎兵を練兵した。承宗が山海関に4年いた前後、大城9つを修復、保塁45、11万の兵を練兵し、車営12、水営5、火営2、前峰後営8、甲冑や器械弓矢、砲石、盾など数百が揃えられた。また、400里を拓き、5千の駐屯地を開き、15万の兵を歳入する。これにより、遼西及び山海関の防備が固められた。孫承宗は、勃興してきた後金の八騎精鋭を主敵と考え、優勢な敵の騎兵突破に対抗し、戚継光の考案した車兵戦術をさらに強化した。車営の車両は、包括して戦闘用と輜重(補給部隊)の2種に分けられる。戦闘用は、歩兵隊と火砲、その他火器を装備し、輜重車は糧秣を車載した牛車だった。戦闘用は毎両600斤以上を搭載し、軽車はその半分の300斤だった。

これらを総合すると一営の火器装備率は40パーセントにものぼる。またこの戦闘単位とは別に権勇という別の予備部隊があった。騎兵800騎、火銃320丁、権勇は16隊中、2隊ごとに火砲1門、騎兵は全ての隊に軽砲5門を配備した。全営で権勇は歩兵3200、騎兵5600、火銃1984丁、火砲264門、車両128両を有し、その上で、督師と言われる司令部直轄の騎兵も存在し、遊撃兵力もしくは、予備兵力として使われそれぞれ前鋒営、後頚営と称した。この部隊は車営部隊とは別の単位で使用され、総兵力は3000騎にのぼる。全営の火器保有は大滅虜砲35門、小滅虜砲88門、三眼銃888丁にのぼり、さらに別配属の輜重が一営存在する。(輜重は補給部隊を意味する)一両は人夫二人と牛一頭で編成され、戦闘部隊同様の名称を与えられている。即ち、8両で1乗、4乗(32両で)で1衝、2衝(64両)で1沖、4沖(256両)で1営を為す。毎両、八石四斗の搭載量があった。

歩、騎兵の各隊は方陣が基本であったが、地形によっては地形に沿った曲陣(横隊)を組んだり、鋭陣(三角形)或いは円陣などを組み、状況や地形に合わせて形成された。方陣と円陣の最は防御的戦闘隊形であり、予備部隊は常に中心に、進行隊形のための曲陣や鋭陣、直陣の際は後方に位置した。また、予備からの勝手な兵力抽出は禁止されていたことなど近代の軍事理論に合致する部分も多い。孫承宗の車営戦法は防守と出撃、進攻、渡河、上陸、攻城など様々な場合に応用された。

これら車営戦術は、火砲を搭載した車両を中心に円陣を組み、中に歩馬を入れ簡易な拒馬器で騎馬の突撃を防いだ。敵に対しては、初めに火器を放ち、接近された時は配列された拒馬器の間から長槍で戦い、敵が逃走に移ると騎兵が追撃に移った。明代の車兵は古代の戦車兵とは確実に種類を異にしており、その装備と戦闘に関する作用を見るに、西欧の砲兵、並びに火器部隊の性質に近いものがある。また騎兵や歩兵と組み合わせた、諸兵科合同戦術を取っており、その構想は非常に優れたものであった。しかし、車営戦術も質量共に優越した騎兵の機動力の前には、決定的なものとはならなかった。それどころか、機動性の低さ故、大敗を喫することも多く、活躍した戦例は少ない。車営戦術は、幕末の長州藩でも「神器陣」という、おそらくはシナの車営戦術を参考にしたと思われる戦術が考えられている。台車の上に大筒を載せ、側面に火縄銃兵を配備し、一斉射撃の後、硝煙に紛れ、背後の刀槍兵が突入するというもので、山鹿素水も似たような戦術を考案したが、優れた後装式ライフル銃を持ち、運用するイギリスをはじめとする諸外国に敵うわけが無く、廃止される。

この後台頭してきた、優秀な騎兵兵力を有する後金との戦闘でも、明軍の火器部隊は、野戦において完全に圧倒されている。1618年のサルホの戦いでは、4月21日 南下する後金軍に対し明軍は迎撃のため、撫順城に一万の援軍を送り、郊外で対峙した。明軍は火砲を使用したが、風向きのため自らの発砲煙に邪魔され、そこを突撃されて大敗する。三月初め、吉林に立てこもった後金軍に対し、悪天候の中、杜林は松明を建てて砲撃した。後金軍は逆にそれを利用し、接近し松明の付近に矢を集中し、また明軍の本営を霧にまぎれて攻撃し潰滅させた。その報を聞いた馬林軍は塹壕を掘り、防御陣形をとり、また本営から離れた所に車兵を配置して騎兵突撃を防ごうとしたが、後金軍は騎兵の一部を迂回させ馬林軍を挟撃し大敗させた。また劉廷軍は三方面から包囲され潰滅し、劉廷軍所属の朝鮮の鳥銃隊も、一度斉射をした間隙に騎兵突撃を受けて崩壊した。明軍が火器を持ち出して車営戦術などをとっても、後金軍は柔軟に火器を避け、迂回や包囲を行い、ある時は騎兵突撃まで行って火器部隊を崩壊させた。

 

これと対照的には1626年の山海関の戦い(注6)(注6)1626年 山海関の戦い 勢いに乗る後金軍はさらなる侵攻を企図し、南下をはじめ、西平保、広宇などを攻略し、明軍の最大の要塞である山海関の攻撃に取りかかる。寧遠城の守将袁崇 は投降を進められるが、二十万と呼称する後金軍が13万程度であることを見抜き、降伏を拒絶した。後金軍は攻城を開始したが、城壁に据え付けられた紅夷砲の猛射を浴びて、いたずらに兵力を消耗した。一説によるとヌルハチもこの攻撃によって負傷し、傷が元で病死したらしい。その後、明軍は周辺の城塞を修復しつつ、後金軍を追撃し、撤退に追い込んだ。後金軍は翌年も攻撃をかけたが失敗した。 

では城塞によった明軍が大口径の紅衣(夷)砲の威力を発揮し勝利する。この紅衣砲は前装式の新型のもので威力、射程、命中精度共に優れていたが、重量があった。(紅衣砲は従来、オランダ製とされていたが、特に限定されるわけではない。山海関の戦闘に使用されたのはポルトガル製である)この戦闘の後、清は明の降将などから洋式大砲の入手につとめたり、製造などを行い、火器装備率を高めていく。対する明は神宗(1589)以後、政治は腐敗し、軍隊も弱体化し武官は八万人も不足するという窮状を呈していた。「京営の軍官も半数は商家の子弟など賄賂で地位を得た者で、兵も不足していている上、宮殿の増築に使役され、訓練は毎月数日、日に半日程度しか行われず、京営には火器が五万あったが、扱えるのは二十人に一人いるかいないかであった」(明経世文編 巻四百六十一)明軍は清に対し、火力では優越していたものの、兵力の根本的不足と分散、統一戦略の欠如、消極的な防御戦術、軍そのものの弱体化により敗北した。また、国内の腐敗により反乱が頻発し、反乱鎮圧にも兵力を割かねばならなかったことも大きな要因である。明は朱元 の天下統一の過程で、火器が多く使用されたことに端を発し、世界初の火器部隊である神機営の存在や城塞に重火器を配備したことから、火器の使用についてかなり積極的な王朝であったと言える。しかし、土木の変と北京の戦闘に見られるように、火器は主に城塞防衛の兵器として有効であり、西欧のように攻城や野戦のための主力兵器ではなかった。シナの独自の火器使用戦術である車営戦術なども考案されたが、圧倒的な質と量を誇る北方異民族騎兵の集団突撃の前では分が悪く、北京の戦闘や山海関の戦闘にみるような、城塞に拠った防御戦闘ではない限り、その威力を発揮できなかった。また過度の秘密保持のための修練不足などの問題も存在した。

 

火器は陸戦のみに用いられたわけではなく海戦でも使用された。広船と言われた大型艦は、尖尾船、大頭船とも言われた。高さが三十四丈もあり、仏郎機や火球を投擲することもできた。福船は威継光の紀効新書にも解説され、城のような巨艦である。喫水は一丈十二尺であり、明史兵志によると、「百人の収容が可能であり、船首と船尾が高い。そして、全体が四層に分かれており、最下層には錘として土石を積み、三層目が右左に六門ずつ砲を積み、最上層は甲板になっており、火器の搭載が可能であった。この福船は非常に大型だっため、人力のみで航行することはできず、マストを使った。福船という名称は福建省で建造されたため、この名前がついたらしい。漁船は、いわゆる漁船ではなく、最も小型の軍船の一種であり、わずか五人(三人という説もある)で操船することができた。小さいながらも帆を装備していたらしい。鳥嘴銃(鳥銃)という銃器を装備しており、偵察用の艦艇として使用された。

明史兵志によると、虫呉虫松、ムカデ船はその形からこういった名がつけられている。千斤から五十斤の各種火器を両舷に搭載している。多くは仏郎機であった。積載能力と同じく航行能力にも優れている。海図編ムカデ船図説によるとムカデ船は嘉靖四年始め、蓋島夷を制するに用いられた。その威力が認められ、南京で沿岸防衛用として、発注され、13年使用された。ムカデ船は一百五十料船にやぐら等が似ているため、改良型という説もある。サイズは八丈六尺。

 

 

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