3 西欧における火器の急速な進歩 (火砲と火縄銃の完成)

 

 1300年、突火槍がマドファとしてロシアに流入してから、西欧でも火器が製造されるようになる。西欧で初めての火器の記録は、1326年、イギリスのエドワード三世にウォルター・ミルメードが献上した写本にある、矢を弾体とした壺型の火器の図だった。  

この頃から、ちらほらと火器とおぼしき兵器の記述が文書に見られる。この時代は、英仏百年戦争(1339〜1439)の時代にあたり、重装甲騎兵に対する長弓隊の優位など軍事上の新たな進歩が見られた時代だった。火器もその一つで、火槍のように火炎を放射するものや、ただ大音響で人馬を驚かせるものなど、様々なものが生まれた。その中で、1399年に攻略された城から発見され、地名から名を取ってタンネンベルク・ガンと言われている火器が存在する。このタンネンベルク・ガンは、発射方式や使用法など、突火槍の流れをくんでおり、シナの銅手銃に非常に近いものだった。この銅手銃タイプの火器が西欧における全ての銃砲の祖と言って間違いないのだが、西欧の火器の進歩には、シナと最も大きく異なる点が存在する。シナの銅火銃には取っ手や簡単な照準はついていたものの、基本的には砲の小型版であり、厳密に銃とまでは言い切れない。それに比較し西欧では数人で操作し、攻城や野戦で使用される砲と、個人で操作し歩兵の基本装備となる銃の分岐が、かなり早いうちにはっきりと現れている。

まず、砲であるが、巨大な射石砲が、短期間のうちに登場する。その中で最も有名なのが、1450年にモンスで鋳造された全長2.97メートル、重量6.6トン、口径48センチにも及ぶモンス・メグである。これらの巨大砲は、正球形に磨き上げられた石弾を発射したが、装填に時間がかかり、非常に重量がかさんだ。また、粗悪な練鉄式だったため、砲身がすぐに痛んだ。攻城戦において使用されたらしいが、ほとんど役に立たなかったらしい。幾つかの巨大砲は現存している。紹介したモンス・メグはエジンバラ城に展示されているし、飾りものであるが、モスクワのクレムリンの前にも「大砲の王」と俗称される巨大砲が存在する。これらの巨大砲に最も執着したのはオスマントルコであった。メフメト二世はコンスタンティノープルを包囲した際に、巨大砲を鋳造させ、攻撃に使用している。しかし、西欧の関心が野戦用の小型砲に向かっても、オスマントルコは巨大砲を手放さなかった。その巨大砲の一つダーダネルス砲は現在でもロンドン塔に保存されており、訪れる人を驚かせている。西欧においては、これらの巨大砲は完全に廃れたが、20世紀に一時的に復活した。ペトンと砲、機関銃で固められた要塞を破壊するため、信じがたいほどの超巨大砲が用いられたのである。中でも第二次大戦にドイツが開発した60センチ自走臼砲や80センチ列車砲は史上最大のものだった。しかし、これらも要塞攻略という限定的な目的の兵器であり、航空機が発達した現代においては、巨大砲の活躍する余地はもはやないだろう。

これらの巨大砲はそのうち徐々に姿を消し、鉄弾を使用する小型軽量で堅牢な青銅砲がとって変わる。やや新しい時代になるが、1494年にシャルル8世のフランス軍がイタリアに侵攻した際に、これらの青銅砲が使用され勝利に貢献した。この影響で各国は大砲の有用性に気づき、15世紀後半から16世紀にかけて、大砲が盛んに大量生産されるようになる。各国の軍が火砲を大量に装備しはじめると、それに対抗し「イタリア式築城術」と言われる対攻城砲要塞が各地で建築されるようになった。すると次は巨大化した要塞を防衛するのにも、攻撃するのにも膨大な兵力が必要となる。こうして西欧の各国軍の兵力は次第に膨れ上がっていった。(大量生産が可能になると高価な青銅砲より、安価な鋳鉄砲が求められた)

次に火縄銃(マスケット)であるが、火縄銃の発展もかなり急速なものだった。銅手銃やタンネンベルク・ガンは、点火孔に直接点火し、その部分に置いた点火薬が発射孔に引火して弾体を発射するという原始的な形式をとっていた。火縄銃はそれを改良し、S字型の金具(サーペンタイン)で火縄を保持し、引き金を引くことによって、点火薬を盛った火皿に火縄が落ち、それにより弾丸が発射されるというシステムを完成させていた。このため、点火と同時に弾が発射されてしまう銅手銃と違い、火縄銃は射手が好きな時に引き金を引くだけで発射でき、照準による狙撃が可能となる。火縄銃が最初に姿を現すのは、1475年の「シャーマニカス」という法典書であり、マルティン・マーズというドイツ人が発明したとされている。こうして登場した火縄銃は徐々に戦場の主力としての地位を得ていく。初期の火縄銃は、100メートルそこそこの射程距離しか持たず、数分間に一発しか撃てないという有り様で、必ずしも弓に勝っているとはいいがたかった。しかし、火縄銃兵は弓兵よりもはるかに短期間で養成でき、大量に配備することが可能なため、火縄銃の需要は拡大する一方であった。ヴェネツィア共和国は1490年に石弓隊を全廃し火縄銃隊に変更し、1515年にはイタリア駐留スペイン軍が火縄銃を主力装備として採用する。火縄銃兵の登場により矛兵や大弓兵、大型の両刃剣を装備したダンビラ兵も姿を消していく。

さらに1594年にオランダ軍の指揮官、ナッサウ伯マウリッツは「斉射戦術」を採用した。斉射戦術とは横隊の兵が入れ替わり射撃する戦術で、発射速度の遅い火縄銃で間断無く射撃するための戦術である。織田信長が長篠の合戦で使用したと言われているが、最近の研究では後付けらしいことが判明している。

シナでも清代に連環銃式という名前で独自にこの戦術が考案された。こうして今までの密集隊形から、細長い横隊へと陣形の変化をもたらした。以上のような砲と火縄銃への早期の分化と、その普及は西欧の軍事体系を大きく変えた。その第一のものが砲、要塞の発達と火縄銃の普及による兵員数の極端な増大であり、もう一つは各地に大量の要塞が建設されたため、陸上での戦闘がある種の手詰まりに達したことである。陸上での戦闘の限界は、海上に求められ帆船と搭載された舷側砲の時代が訪れる。(俗に言う大航海時代は、西欧各国の覇権争いが海上にまで拡大したとも言える)以上のような15後半〜16世紀後半に及ぶこの時代に起こった西欧の軍事上の大変化は、その後の西欧優越の基礎となった。

艦艇の舷側砲の発展、戦闘による火縄銃の重要性の高まりと加えて野砲による援護、ヨーロッパ史上例のない持続的な兵力の増大、対攻城砲要塞などの15、6世紀に起こった軍事上の変化は、マイケル・ロバーツにより軍事革命と呼ばれた。ただし、最近では否定されている。進歩は漸進的なものだったという説が有力である。

ヨーロッパの戦場で鍛えられた火器とそれを装備した軍は、やがて世界を制することになる。

 

 

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