2 宋、金、元代における火器の発展 緩やかな進歩 

 

(1)火薬の軍事応用 

 

 火薬の軍事における応用以前にも、油脂や松香を使用した火攻めが盛んであった。一般的に三国から南北朝までが火攻めの定着した時期と見られている。この戦術の基礎上に火薬が発明されると、その火力の高さから武器に応用されるのは自然の成りゆきだった。「新唐書・李希烈伝」によると「徳宗(780〜804)の時代に李希烈が開封に依って、帝を称した。それを迎え撃つため、劉合が兵を率い、宋州に入り、城を死守した際、李希烈の部下は、方士策を用い、劉合の城の防御設備を焼き払った」ここでいう方士は練丹家であり、その策というのも単なる策略ではなく、城の設備を焼き払うものであった。方士策が何だったのかはっきり分からないが、恐らく燃焼性の火薬だったと考えられる。はっきりと火薬の成分が判明し、発見され書物に記される以前から勘や経験により、燃焼性火薬が軍事に応用されていたことが伺える。

 

(2)火器発展を生んだ宋代の軍事的状況

 

 燃焼性火薬は火攻めの一種として使用されるようになったが、宋代に入ると急速に火薬兵器=火器として様々な形をとることになる。これには、技術の上昇と共に、宋代全般の軍事状況が大きく作用していた。安史の乱以後、藩鎮=地方軍閥が割拠し、いわゆる「兵驕逐師」という状態に陥ったため、宋の開祖、趙巨胤は叛乱を警戒して地方軍を削減し、精鋭を禁軍として中央に集めた。そして、軍は専ら治安維持、叛乱鎮圧を主目標とし、従来の主敵であった遼などの北方騎馬民族には歳幣などで懐柔した。軍の地方軍閥化を抑止するためのこの軍制度整備が、防御中心の対外姿勢を生んだ。

対内鎮圧、対外求和の国防方針は全般的な騎馬兵力の不足を招く。太宗の時に首都及び諸州の民間の馬は、十七万三千五百七十九匹、真宋の時、諸軍の兵馬は二十余万、牧馬十四万を保有した。しかし、神宋煕宇年間には下降気味で十五万三千六百四十三匹になる。宋史兵志の記載によると、宋は毎年一万匹以上を必要としており、漢、唐代と比較してその差は非常に大きい。この頃から、北宋の軍に属する騎兵部隊は慢性的に馬が欠乏し出した。「今、天下の騎馬部隊は大率十人に一人無し、二人に馬有り」とさえ言われた。神宋時には河北の騎兵中、騎射の能力の在る者を馬に配備し、余った兵は歩兵に配置換えされた。南宋においては、狭西を失い、西北馬を買う道が断絶され、西南少数民族から馬を買うことに頼り、北宋より、欠乏の状況はさらに悪化する。劉光世軍の五万二千三百十二人のうち騎馬はたったの三千百十一匹しかいなかった。殿前司の騎兵は総兵力の只の七分の一、その内欠乏している馬は五分の一にものぼった。宇宋の時、江州都統司の兵力総定数は、一万であるにもかかわらず、馬は千匹にも満たない。両宋の騎兵の馬の欠乏はこのような実状であった。騎馬が不足したのは、唐以後、西北馬の産地を失ったためであり、不足分は大量の金で異民族から馬を買い、何とかしのいでいた。さらに、騎馬の不足という現実を無視した、「歩を以て騎を制する」という一種の騎兵無用論”歩を持って騎を制する”という理論が、かなり広く信じられていた。「夢渓筆談」を著した沈括のような士大夫でも、「契丹人は馬と共に生活し騎戦に強い。しかし、宋には強弩がある。我々はこの長ずる技で、勝利者となることができる」という誤った説を唱えている。

現状を肯定するための騎兵無用論は騎馬の不足にさらに拍車をかけた。地方軍の軍閥化を抑制するための軍制と騎馬の不足から生まれた、防御中心戦略並びに騎兵軽視の風潮が、歩兵と城塞の重視をまねいたと考えられる。そして、宋代における様々な火器の開発や発展も、歩兵と城塞重視の防御中心戦略の影響下にあることは間違いない。宋代が火器の黎明期となったのは、火薬の質の向上の他、その軍事的環境が大きな要因であった。

 

(3)燃焼性火器(火球類、火槍)の出現と発展  

 

 本格的に火薬を利用した兵器が使用された時期については、様々な説があるが、正式にそれと分かるものが完成したという記述は「感平三年(1000年)八月、神衛兵器軍隊長、唐福献が火箭、火球を製作した」という「宋史」や、「続資冶通鑑」の「感平五年(1002年)眞宗、宰輔の臨席している前で火球や火箭の評価試験が行われた」に見られる。上記の火器は宋初の曾公亮が編者である「武経総要」にも見られ、10、11世紀には火薬系兵器がすでに出現していたことが伺える。記述に登場する火箭や火球はそれぞれ違った特性を持つ。まず、火箭だが、ロケットの効果が知られていたのは13世紀であり、これは、燃焼性火薬を詰めた火矢だろう。火球と呼ばれたものは火薬を球状の紙で固めた器に詰めたものであり、毒薬火球と言われるものには、砒素やトリカブト、桐油、歴青など、毒性の強いものや可燃物質などが燃焼火薬に混ぜられていた。これらの火器は、焼夷効果や毒物を燃焼させることで敵を燻し出すことを目的としたものであり、手で投擲するなどして使用された。

また、火槍という火器も存在した。これは、火薬の入った紙製の筒を槍の穂先に装着して点火し、炎を噴出させる火器であった。「紹興二年(1132)六月十三日から八月十九日まで、李横は城を囲んだ。八月五日に李横が大型の大雲梯橋という攻城兵器で城を攻めた際、陳規は火砲薬を詰めた竹竿を火槍として、二十余程製作し、攻城櫓が近づくと、兵員を載せた戦棚を吊りおろして迎撃させた」火槍は金でも使用され「金史巻百十六浦察官奴伝」には、哀宗天興二年(1233年)在帰、徳府王家寺の戦いで金軍は火槍を装備して、水路、モンゴル軍を襲撃した。モンゴル軍は支えきれずに敗走し、溺死する者は三千五百人にのぼった」という記述があり、火槍が猛威を振るったことが伺える。また、記録には火槍の製作も記載されている。「黄紙16重を筒と為し、二尺程にし、柳炭、鉄滓、磁末、硫黄、砒素などをまとめ、槍の穂先に縄で固定する。軍士は各々、小さな鉄缶に火を蔵し、陣に臨むときこれに点火し、炎を槍の前に噴出させる。下京の戦闘の際に効果を発揮し、今も使用される」など様々な文献でその姿を見ることができる。しかし、この時代には、爆発の衝撃力を利用して、敵を殺傷する爆炸性火器は、まだ登場していなかった。  

爆炸系火器の出現には、硝石の率が高く、純度の高い火薬が必要であった。

艦艇に火薬性兵器が搭載されたのは、紹興三十一年八月、(1161年)金の暴君として知られる海陵王の南宋侵攻の際、宋軍によって、采石機の戦闘で使用されたらしい。霹靂砲という名だった。また、金の東道水軍を宋軍が、珍家島の戦闘で敗北させた際には、火箭を使用している。宋史記事本末によると「李賽が海州の囲みを敗るために、膠西石白島付近に艦隊を率いて到達していた。金軍が珍家島の海口に停泊しており、両者の距離はわずかだったが、風が激しかったため、気がつかなかった。また敵の操舟者は、ほとんどが中原の出身であったため、敵兵を舟に入れてしまった。賽の艦隊は火箭を放ち、百艘を焼いた後、白兵戦を行いって降伏させ、三千人を捕虜にした」また、元代では日本遠征などが行われ、4400隻もの艦隊が送られたが、これはどちらかというと輸送艦である。明代では鄭和の南海遠征が有名だが、その大型艦は宝船と呼ばれ、火砲を搭載していた。また、明代では広大な河川を警備し、倭寇などに備えるため、様々な種類の艦艇を建造した。その中には当然、火砲を装備できる艦もあった。

 

(4)爆炸性火器(鉄火砲、霹靂砲、震天雷)の出現と発展  

 

 爆炸性の火器は、紹興三十一年(1161年)采石磯の戦いで虞允文の指揮する宋軍が初めて使用したとされている。「誠斎集巻四十四」によると「賊軍の舟に霹靂砲を投げ入れ、大音響と石灰をまき散らさせ、眼を潰した」ことが記録に残っている。しかし、この説には異論が多い。登場した霹靂砲は紙で器が作られ、石灰と硫黄が詰められていたと記されているが、石灰と硫黄だけでは爆発現象は起こらない。記述が誤っているか、著者が、硝石と硫黄、木炭が火薬の主成分であることを知らなかったためかもしれない。火薬の成分は秘密にされたため、敵の手に渡っても同じものが作られないよう関係の無いものを混ぜたりすることもあった。

そのような工夫にも関わらず、早くも采石戦後六十一年後の宋嘉定十四年(1221年)金が宋の斬を攻めた際の戦闘記録である「辛巳泣斬」に金軍が鉄火砲(砲は必ずしも金属管形の火砲を意味せず、爆裂弾などや、投石機、その弾体や火薬そのものにも砲という名称がつけられていた)という爆裂弾を使用したことが記録されている。「十一日、金軍が西北楼を横流砲(投石機)、十をもって攻撃した。一砲ごとに一鉄火砲をつめた。その音はまるで霹靂のようだった。その日、砲を操作している者の不注意で、金兵は鉄火砲を破裂させてしまい、金兵の中で死傷者がでた。西北楼が打ち破られ、攻撃は西南楼に向いた。鉄火砲で相継いで死傷者が出た」

資料によると鉄火砲は鉄で鋳造された厚さ2寸程の容器に火薬が入れられ、中に火縄(導火線)が仕込まれた。放つ時は、火縄に点火してから投擲する。爆発した時、鉄の破片を撒き散らすため、現代の爆裂弾と機構的には変わらない。宋で発明された霹靂砲は、金の手に渡り改良され、その上、投石機を使用して敵の城塞に投げ込むことまで考えられた。 

この鉄火砲という爆裂弾は、その後、霹靂砲、震天雷といわれるようになった。震天雷の威力はすさまじいもので「続資治通鑑巻百六十六」によると理宗紹定五年の記述には「震天雷は鉄の容器に火薬を詰め、点火すると爆発し、その雷のような音は百里に渡って聞こえる。半畝近くが焼き尽くされ、鉄甲も通す」というものが見られる。また、震天雷は攻撃だけではなく、防御にも使用された。「金史巻百十三」によると「1231年、モンゴル軍は金軍の要所である童関を迂回し、金の南京、下梁(河南開封)を包囲した。モンゴル軍は大量(100基近く)の投石機を用いて昼夜を問わず攻撃した。金軍は震天雷や飛火槍で迎撃し、双方に多大な被害がでた。モンゴル軍も攻城兵器として、震天雷を使用した。中略 モンゴル軍は牛皮を重ね張りした戦車を使用して城に接近し、坑道を掘ろうとしたが、城壁に震天雷を下げてモンゴル軍が下にきた所で一斉に爆破した。人も牛皮も皆、跡形なく粉砕された」という。モンゴルに渡った震天雷は元成立後も使用され、1281年の日本侵攻にも使用され「てつはう」の名で日本軍に恐れられた。その様子は「蒙古襲来絵詞」によく描写されている。しかし、「蒙古襲来 その軍事史的研究」によると持ち込まれた数は少なかったらしい。

震天雷は投石機の併用と共に、金、宋、元で広く使用された。(一般に前期には鉄火砲、霹靂砲、後期に震天雷と呼ばれたらしい)金において、投石機が使用されたことは述べたが、投石機を最もよく使用したのはモンゴルであった。「元史巻二百三」によると1268年、交通の要所であり、最大の要塞である襄陽をモンゴルが攻撃した際に、攻城兵器としてイスラム伝来の投石機、回回砲が使用された。この回回砲はマンジャニークともいい、非常に優れたもので、150斤の石弾を飛ばすことが可能であった。「機が発する音は天地を振るわせ、撃つところ燃え上がらぬ所はなかった。宋安撫、呂文換は降伏した」という記録の中から、石弾のみならず、金から捕獲した震天雷、あるいはそれを模して製作されたものが使用したことが伺える。鉄火砲、霹靂砲、震天雷といったこれらの爆裂弾は、南方を支配地域とした宋により開発され、シナ化した金によって改良された。これらの火器は、圧倒的騎馬兵力を有するモンゴルに対し、城塞戦での優位を支える貴重な兵器となったが、一度、モンゴル軍の手に渡ると今度はイスラムの投石機と併用され、南宋の頼みとしていた城塞を打ち砕き、元の成立に一役買ったのである。

 

(5)管形火器(突火槍、銅手銃)の出現と西欧への伝播

 

「続資治通鑑百六十六」には、鉄火砲や震天雷の他、火槍も広く使用されたことが記されている。火槍は南宋時代になるとさらなる発展を遂げ、竹製の砲身を持つ管形火器に進歩していく。この管形火器は突火槍と呼ばれ「宋史兵志」の中に登場している。「巨竹をもって筒として、内に子弾を装填し、もし放てば、炎が絶えた後、子弾が発射される。砲声は遠く150歩に聞こえる」この突火槍が世界初の管形火器であり、銃砲の直接的な祖先であることには間違いないが、この記述では不明な点が多い。突火槍はその後、モンゴルに捕獲され、複製品が作られるようになり、モンゴルの侵攻時に当時のロシアに伝わった。 

それは、レニングラード博物館にある「シェムス・エディン・モハメネッド文書」という1300年にイスラム教徒によって著された書物の中に、マドファという突火槍同様の火器が記載されていることにより判明している。モンゴルは多数のイスラム教徒の官僚を抱え、当時のロシアもモンゴルの支配下にあったため、突火槍がロシアに伝わったのも不思議ではない。おそらく、この突火槍がヨーロッパに伝わり、全ての銃砲の祖になったのだろう。本家のシナでも、突火槍は発展し、銅製の砲身を持つ物も現れた。1290年頃に製造されたと言われる銅手銃や1332年製作の銅手銃などが、これに該当する。このことから少なくとも14世紀には、爆発力によって弾体を飛ばす、銃砲の原型である金属製管形火器が完成していたことがわかる。

 

 

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