1 火薬の発見 

 

 火薬は衆知のように硝石、硫黄、木炭の三成分を混合することによって得ることができる。火薬の発明者とその正確な時期は、現在でも明確ではないが、火薬は、そもそも練丹術の過程から誕生した。練丹術とは道教の思想から発生したものであり、不老不死の薬を得ることを目的にした製薬作業だった。この練丹術の研究により、シナでは古代から非常に高いレベルの化学的知識が培われた。火薬を構成する三要素も練丹の際に偶然発見された。まず、火薬の製造で最も重要となるのは硝石である。この硝石は化学名を硝酸カリウムと言い、その自然の鉱床は熱帯地域にあり、インドやアラビア、シナの山東半島などに豊富に存在した。硝石は消石と表記され、練丹術で鉱石を液化させる時に使用されていたようである。

硝石の記述は1150年に昇糸子によって著された「伏儀図」に「白水晶の断片を熱して、その上に硝石を少量落とすと、それは沈む。道教の教典によれば、武昌の硝石はすべての金属や鉱物を液化し、溶解させる。中略 昨今用いられている硝石には天然で無いものもある。河北の沿岸の住民は塩分の多い土からそれをかき集め、濾過する……」この道教の教典というのが何かは分からないが、硝石の選別(炎色反応の確認)鉱物を溶解させる特質、製造法は、この「伏儀図」の著された唐代には間違いなく存在していたことになる。硫黄の精製も2世紀の「神農本草経」によって早く知られており、土法炉に黄鉄鉱と石炭の粉を練り固めた物を入れて加熱し、蒸留して結晶させること(硫化物を酸化物に変化させる)によって完成させられた。では肝心の火薬の性質はいつ頃判明したのだろうか。 

ここでは、現在知られている中でもっとも古い。郭正誼の「シナ古代化学史 火薬発明資料探索」によると普遍的に引用されている資料として、宋代の「道蔵・衆術類・諸家神品丹法」内で紹介されている「孫真人丹経内伏硫黄法」がある。しかし、この資料は、確実性に欠けている。「孫真人丹経内伏硫黄法」には「硫黄、硝石、各2両をすり潰し、右に銀製の鍋、或いは沙缶子に入れる。穴を掘り、鍋ごと中に入れ、四面を土で埋める。黒色化したそれは、燃焼性があり、炎の出尽くした後、炭を加え、加熱する。炭が3分の1位残った時に火を消し、冷やして取り出す」という記述があり、隋唐時代の孫思バク(581〜682)が作者とされているが、「諸家神品丹法」は宋の孟要甫(道号玄真人)がまとめたもので、隋唐時代のものではない。陳国符教授は近年考証により「孫真人丹経」が唐粛宗元年から3年にかけて(758年〜760年)に完成していたらしく、時代が100年近くずれていることが分かった。また、現存する文章中に、火薬の配分法は「内伏硫黄法」と記されているが、練丹家は内伏、外伏などの用語を使わない。「内」はそもそも「伏火」の意味であり、そのまま当てはめるならば、「伏火伏硫黄法」という意味のとれない言葉になってしまう。正確には「伏硫黄法」となるはずであり、実際「諸家神品丹法」中の「葛仙翁紫雲丹経」内では「草伏朱砂法」という記述になっている。結局、この「伏火硫黄法」の作者は、孫思バクではなく、後代につけ加えられたものか、誰かが孫思バクのものを誤って伝えたのかもしれない可能性が高い。唐元和三年(808年)清虚子の「鉛 甲康至宝集成」中にも伏火法として、「孫真人丹経」に記載されているのと似ている記述が現れる。「硫黄2両、硝石2両、ウマノスズクサ3銭半を粉末にして穴を掘り、混合した薬を缶内におく。加熱して煙を起こす。湿った紙で四五重に蓋をし、土の中から取り出す」

正確に火薬の燃焼性が文献に記された資料が、850年頃の「真元妙道要略」という書物である。そこには、おそらく煉丹制作の失敗例の一つとして挙げられている一節が存在する。「ある者は硫黄と鶏冠石(砒素)および硝石に蜂蜜を混ぜ、その結果、煙と炎が出て手や顔に火傷をし、家まで焼いてしまった。硝石は決して三黄(硫黄、雄黄、雌黄)と混合してはならない。災いがふりかかることになる」この記述から、硝石、硫黄、蜂蜜=木炭の三種混合により火薬の燃焼力が明確に判明したことが分かる。(ジョセフ・ニーダムも、この事項をもって火薬が現れた最初の時としている)だが、この火薬は硝石含有量が少なく、爆発力を持つには至っていない燃焼性の火薬であった。しかし、それでも、火薬が文献に現れるのは、西欧より四世紀以上も早かった。

 

 

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