日本 

 

甲標的 

 日本海軍のドクトリンは、一貫して来寇する敵艦隊を迎え撃つ形の邀撃艦隊決戦であった。戦艦には戦艦をぶつけるのが一番なのだが、国力の限界がある日本は、戦艦のみに頼るわけにはいかなかった。しかも大正10年のワシントン軍縮会議では戦艦、空母のトン数、保有量の制限も受けてしまった。注目されたのが、うまくすれば、数隻で一艦を撃沈しうる魚雷を搭載した駆逐艦や潜水艦だった。しかし、ロンドン軍縮条約で潜水艦や駆逐艦さえ制限をうけてしまう。戦艦戦力が劣勢な日本海軍としては、戦艦は主砲の大口径化(大和級)と猛訓練で補い、戦艦同士の砲戦の前に、あらゆる戦力を投入して、敵戦艦戦力を漸減する。日本海軍を語る際、大艦巨砲、戦艦による決戦が強調されすぎるきらいがあるが、その前座である漸減こそ実は本命であり、水雷決戦を企図していたと言っても過言ではない。特殊潜航艇も、駆逐艦、陸上攻撃機、艦隊型潜水艦と同列の水雷決戦兵器だった。

 甲標的は1931年12月に、岸本鹿子治大佐が、艦政本部第一部第二課長に就任してから開発がスタートした。以前、海軍内で日本海軍独自の兵器を構想するコンペが開かれ、予備役海軍大佐、横尾敬義氏の魚雷肉攻案が元になって魚雷搭載小型潜航艇が考えられた。また、前述した第一次世界大戦におけるイタリアによるオーストリア戦艦撃沈も当然、調査されただろう。模型実験の結果、脈あり、ということで仕様と設計図が完成する。概要はアメリカ艦隊の20ノットに対し、1.5倍の速力を持ち、航続距離は砲戦前ということで、6万mとされた。決戦後に搭乗員は回収するとした。岸本大佐は途中で握りつぶされることを恐れ、軍令部総長、伏見宮博恭王元帥に直訴した。伏見宮軍令部総長には、体当たりの自爆兵器ではないことを説明し、許可をいただいたという

A:電池式、B:ディーゼル、C:電池とディーゼル併用の3案が考えられたが、結局A案となった。海軍の予算の関係もあり、A案なら安上がりということで予算が認められたのだろうか。1932年8月に軍機兵器として開発が決定された。秘匿のため特殊潜航艇とは呼ばず「対潜爆撃標的」と呼称された。第一次試作時には、海水浴場に無人型が突進するという事件が起こったが、観測用の水上機が緊急着陸して、乗員が飛行機の説明をはじめて客の目を逸らしたため、幸い無事故ですんだ。第二次試作時には、潜望鏡観測時に、波高により海面に司令塔が露顕してしまい、隠密襲撃ができない、という大変な欠点が明らかになった。結局、発進前に目標を指示して航行、接近するしかない。魚雷を発射するとその分軽くなり、発射直後は艇首が浮いてしまい、存在を暴露してしまうという欠点もあった。第一次試作時にはA標的、第二次試作次はTB模型、改良対潜爆撃標的などと呼ばれたため、実際に航空隊関係者から、貸してくれと頼まれて困ったという話もあった。

 同時に、母艦「千代田」級の建造も進められた。表向きは水上機母艦として建造され、有事の際には母艦に早変わりする。「千代田」「千歳」「日進」「瑞穂」の4隻が建造された。(「瑞穂」は改装されなかった)1隻に特殊潜航艇を12基積み、敵艦隊を捕捉するや砲戦前に12×4の48基を発進させ、1基あたり2基の魚雷、48×2の計96基の魚雷を放つ。砲戦前に敵艦隊を減殺する艦隊決戦用特殊潜航艇という構想が具体的な形になった。

 特殊潜航艇の集団運用だが、イギリスが第一次世界大戦後にミゼット・サブマリン、「デヴァステイター」を戦艦に搭載し、砲戦の前に発進させ、攻撃するというアイディアがイギリス海軍士官から出され、また、1923年にミゼット・サブマリンを水上艦艇や潜水艦に搭載し、主力艦を撃破する他、専用の偽装母艦から発進し、開戦と同時に敵国海域の艦艇を撃滅するというアイディアが出されたが採用されなかった。これが日本海軍の特殊潜航艇のヒントになっているのではないか、という説もある。

 1940年11月15日、正式採用された特殊潜航艇に「甲標的」の名が与えられた。量産された甲型は、全長23.9m、水中排水量46t、動力は電池式の電動モーターのみであり、4ノット〜最大19ノットを出すことができた。航続距離は9ノットで29.3km、6ノットで155.6kmと言われる。深度は100mが限界とされた。搭乗員は2人である。武装は97式酸素魚雷とされた。甲標的部隊は、機密保持のため、工場と訓練施設を併設した専用の呉海軍工廠近くのP基地に配備され、搭乗員は猛訓練に励んだ。

 

1941年10月になって、真珠湾攻撃への参加が決定した。これは、搭乗員の熱心な働きかけを山本五十六連合艦隊長官が、仕方なく認めたためとされている。当初、想定された艦隊決戦ではなく真珠湾の泊地襲撃が任務となってしまった。しかも専用の母艦から発進するのではなく、潜水艦を母艦として使用する。防潜網切断用器具や艇尾のプロペラガードなどが付け加えられた。中でも、最大の改造は航続距離を伸ばすため、蓄電池を降ろし、空気を増やすため、気蓄機を増設した点だった。最大速力は16ノットに低下した。

部隊は、特別攻撃隊とされたが、後の搭乗員が助からないことを前提とした体当たり攻撃、特攻の名で知られる特別攻撃とは意味合いが異なり、あくまで危険な任務を請け負った部隊であるという意味だった。潜水艦に搭載された甲標的は特殊格納筒と呼ばれた。

1941年12月7日早朝、「イ16」「イ18」「イ20」「イ22」「イ24」に搭載された甲標的は、真珠湾を目指した。5箇(甲標的はこう数えるという。単体のときは的と呼んだらしい)のうち、2箇は潜入したものの、真珠湾攻撃の4時間前に駆逐艦に発見され、砲撃を受けて哨戒部隊に捕捉されてしまう。3箇の内1箇は撃沈され、もう1箇は放棄(搭乗員は行方不明)されるが、母潜との会合地点に向かった1箇は、座礁してしまい、艇長の酒巻和男少尉が捕虜になる。湾内に潜入した2箇だが、1箇は水上機母艦と駆逐艦モナハンを雷撃するが、逆に体当たりで撃沈される。もう1箇は戦艦(オクラホマ?)を雷撃したと言われているが、戦果は定かではない。

 実質、全滅に等しい攻撃だったが、新聞には大戦果をあげ搭乗員は九軍神として発表された。日本軍は、捕虜を認めていないため、酒巻少尉の存在は意図的に伏せられていた。酒巻少尉の甲標的は引き上げられて「トウジョウの葉巻」として戦時国債募集のため、全米を巡回展示された。

 

明けて1942年2月、呉工廠に転任した岸本鹿子治少将が、A:電池式、B:ディーゼル、C:電池/ディーゼル併用のうちのどのタイプを真珠湾に送り込んだのかを艦政本部に聞きにきた。A案だとわかると、なぜ、港湾襲撃用にC案の電池/ディーゼル併用を作らなかったのかと激怒した。艦政本部の本部長や部員も3案あったことさえ知らずにいたらしい。甲標的甲型は、ミゼット・サブマリンというより、対艦隊用の魚雷搭載有人魚雷とする方が正しい。岸本少将の怒りは至極当然のものだろう。

 

1942年5月31日、オーストラリアのシドニー港に向けて「イ22」「イ24」「27」に搭載された甲標的甲型が、発進。1箇が防潜網に引っかかり自爆し、もう1箇も爆雷により損傷、搭乗員は艇内で自決、1箇が宿泊艦「コタバル」を撃沈するも、帰還できず沈没した。オーストラリア海軍により引き上げられた甲標的内の二人は丁重に海軍葬によって葬られた。

 また、同日、アフリカ沿岸のマダガスカル島、ディエゴスアレス湾攻撃のため、「イ16」「イ18」「イ20」に搭載された甲標的が発進した。この頃、ドイツ側のヴィシー・フランス政権が保有するマダガスカル島に、陸兵を伴ったイギリス艦隊が差し向けられていた。

ここを枢軸のドイツや日本に占領されると、アフリカ沖やインド洋の支配権が危うくなってしまう。南アフリカもどうなるかわからない、という判断からだった。短期間の戦闘の後、イギリス海軍が圧倒し、フランス軍と休戦、駐留することになった。

 「イ18」が機関故障により目標地点に到達できなかったため、2箇のみの発進となったが、戦艦ラミリーズを大破させ、また、タンカーを撃沈した。1箇は、帰還中に座礁したが、乗員は脱出。徒歩で収容地点を目指したが、英軍捜索隊と戦闘、戦死した。

 

甲標的は幾ばくかの戦果はあげたものの、真珠湾、シドニー、ディエゴスワレス、ともに全員未帰還となってしまった。やはり、甲標的を港湾襲撃に使うのは無理があったと断言せざるを得ない。1942年11月7日、アメリカ軍が上陸したガタルカナルのルンガ泊地で、潜水艦「イ20」から発進した甲標的が輸送船を撃破、帰還する他、12月中旬までの作戦の間、7箇が出撃、4箇が帰還した。はじめて帰還者が出たルンガ泊地の作戦であるが、これは警備厳重な港湾ではなかった点が大きいと思われる。また、アリューシャン作戦後、キスカ島に拠点防衛用に6箇が配備されたが、厳しい気象のため、砂に埋まり使用不能となってしまい、キスカ島撤退時に爆破処分された。

 

1942年12月、呉工廠魚雷実験部に着任した黒木博司少尉が中心となり、甲標的の改良に取り掛かった。主な改良点は艇体を1m延長して、40馬力25kwのディーゼル発電機を搭載した点だった。これにより、行動可能時間が2日間と大幅に延長し、6ノットで500マイルの航続距離を実現した。改良型は甲標的乙型と呼ばれた。この乙型が量産され、丙型となった。

 丙型は今までとは違い島嶼防衛に使われることとなった。艦隊決戦用から島嶼防衛に、完全に用法が変化したのだった。ラバウルやチモール、ハルマヘラ、トラックなどへの配備が決まっていたが、輸送途中に撃沈される他、支援施設が整っていなかったため、空襲で撃沈される他、故障などで放棄せざるを得なかったケースも多い。

 その中で、アメリカ軍のフィリピン侵攻を迎えうつため、セブ島に配備された第33特別根拠地隊は、異彩を放っていた。はじめに4箇が到着、計8箇の甲標的がそろい、初めての集中運用が可能となったのだ。スリガオの見張り所からセブ島司令部に通報があると、ネグロス島ズマズテに設けた前進基地に進出していた甲標的が船団を迎撃に進出するというパターンをとっていた。甲標的初の航行中船舶への攻撃でもあったが、1944年12月〜45年3月までの間に水上機母艦1、巡洋艦2、駆逐艦4、輸送船12、不明1を撃沈破している。(アメリカ軍が確認しているのは駆逐艦一隻大破のみであるが、アメリカもすべての記録を公表しているわけではない)甲標的は故障や放棄2の他、1箇が撃沈された。

島嶼が点在し、比較的穏やかな海面、事前の地形の把握、監視所の連絡、通報のシステムが完成しており、また甲標的の運用を熟知した、元「千代田」艦長、原田覚少将が率い、

さらに、練度の高い搭乗員が揃っているという、稀に見る好条件に恵まれた。

 回避されたが、マッカーサーが座乗している艦に魚雷を発射したことさえあったという。多少、割引いて考えるにしても、アメリカの輸送船団にプレッシャーを与えたことは間違いない。損害の少なさから考えても、甲標的の中では、唯一、まずまず成功したケースだと言える。

 1944年に入って、甲標的丁型の開発が始まった。黒木博司大尉の原案が大きく取り入れられた丁型は、従来とは異なり、母艦の制限がなくなり、大型化が可能となった。全長は26.25m・ディーゼル機関と特G型発電機により、航続距離が大幅に伸び、最大5日間(搭乗員の体力の問題で、3日間が限度だという)、水中旋回能力も向上した。外観も一新され、スマートな形となった司令塔はガラス張りの風防がつけられた。武装は通常型の2式魚雷(?)となった。島嶼防衛用の局地兵器、ミゼット・サブマリンとして形になったといえる。

 丁型は、丙型3箇と共に、計6箇で、1945年の沖縄戦で運天基地に配備され、アメリカ艦隊を迎え撃ったが、戦果は巡洋艦一隻、戦艦一隻の撃破(未確認)にとどまる。

支援施設は存在したものの、激しい爆撃により、活動できなかった。

1945年5月、特別攻撃兵器(いわゆる必死の体当たり自爆兵器のみを指すわけではない。文字通り、特別な攻撃を行うという意味である)蛟龍として採用された。本土決戦の際には1隊12箇をもって編制され、各地に配備される予定だった。

 

回天 

おそらく、日本人には最もよく知られた特殊潜航艇(厳密には含まれないという考え方もある)だろう。今でも小説や映画、漫画などで取り扱われている回天だが、その特異性は、はじめから、搭乗員の死を前提とした兵器であるという点に尽きる。

1943年春、黒木博司中尉は、もはや、甲標的では戦局の挽回はできないと考えた。黒木中尉が構想したのは、倉庫に山積みになっている93式酸素魚雷を使用した、搭乗員が乗り込んだ魚雷で体当たりをする人間魚雷だった。何度か、海軍省や軍令部に掛け合ったが、自殺兵器として採用されなかった。しかし、1944年2月にトラック環礁の日本海軍の一大根拠地が壊滅すると風向きが変わり、試作が開始された。同年4月4日、軍令部第二部長、黒島亀人少将は、戦局挽回のための兵器を提案し、艦政本部は試作に着手した。これらの兵器群は一〜九金物と呼ばれ、人間魚雷は丸六金物だった。7月に完成、試験が行われた。この時点で、旋回範囲が大きい、後進ができない、搭載する母潜(100m)の耐圧深度が80m(丸六金物の深度が80mのため)に制限されるなど、欠点が指摘されたが、今から設計変更していては時間がないとされ、8月に採用となった。丸六金物一型は、黒木大尉の提案により、回天と命名された。

 全長は14.5m。水中最高速度は30ノットにも及ぶ。速力を出しすぎると安定しないため、水上最高速度は12ノットとされた。自力最大潜航深度は20m、航続距離は30ノットで24km、12ノットで80kmだった。弾頭は1.6tで爆発すれば絶大な威力を発揮する。

 回天の動力は2気筒並列ガスピストンであり、純酸素とケロシン(灯油)を噴射し、燃焼ガスを発生させる。その後、海水を噴射、この水蒸気でピストンを動かす。(発進状態によって、燃料噴射量を調節しなければならない)また、航走に伴い、純酸素とケロシンが減少し、浮力が増大するので注水作業が必要で、搭乗員は一人で操縦、浮力調整、航法を行わなければならなかった。操縦および、特眼鏡による観測も困難な上、機構も複雑で量産も容易ではない。当の開発者の一人である黒木大尉が訓練中に事故死するという事態もあったが、回天の訓練は進んだ。こうまで回天の戦力化が急がれたのは、戦局挽回が可能な兵器と思われていたのだろう。回天の本質は大威力の誘導魚雷であり、その小さな船体は、狭い水道を通過するのにもってこいと考えられたようである。特殊潜航艇で失敗した泊地攻撃こそ、回天の主任務といってよい。潜水艦司令部も、打開策として回天には期待していた。アメリカ軍のソナーやヘッジホッグ、爆雷を駆使した駆逐艦の対潜水艦作戦により、通常の潜水艦戦は、もはや遂行不可能と見られていた。

 1944年11月、回天は「イ37」「イ36」「イ47」に搭載されてアメリカ海軍の大規模泊地、ウルシー環礁に出撃する。しかし、回天発進以前に「イ37」は撃沈されてしまう。ウルシーに向かった「イ36」は故障のため、3基が発進できず、1基が発進、「イ47」からは全4基が発進する。3基が駆逐艦に発見され撃沈され、1基が自爆、1基が給油艦ミシシネワを撃沈した。回天の撃沈された音、もしくは自爆音を聴音し、さらに撃沈したミシシネワがすさまじい黒煙を吐き出したことを確認、大戦果とし、第6艦隊(潜水艦隊)は、なんと空母3隻、戦艦2隻と判定している。多分に士気高揚、または搭乗員の気持ちを斟酌したものとは考えられるが、聴音と遠方の黒煙のみであり戦果判定の難しさがわかる。アメリカ海軍は安全な泊地で襲撃されたため、相当なショックを受けた。

 12月は、さらに大規模な作戦が行われた。ウルシー環礁、グアム島、パラオ諸島、ホーランジア湾、アドミラルティ島セオドラ泊地に向かった。ウルシーに向かった「イ48」は護衛駆逐艦に撃沈される。その際、大爆発(自爆?)により、護衛駆逐艦が浮き上がったように見えたという。同じくウルシーに到達した「イ36」から発進した回天は揚陸艇を撃沈、弾薬運搬艦に損傷を与えた。ニューギニア島ホーランジア湾では「イ47」から発進した回天は、輸送艦に被害を与えた。グアム島アプラに向かった「イ58」の戦果は不明だった。パラオ諸島では1基の回天が撃沈されたことが確認されているが、ほかは不明。セオドラ泊地に向かった「イ56」は回天を発進できず、やむなく引き返した。必死必殺の兵器として生まれた回天だが信管の動作不良がネックだった。結局、撃沈18隻の大戦果とされてしまった。そのためか、回天は訓練基地が増設され、また量産がすすまないため、回天一型改一とした簡略化がはかられた。(このタイプは靖国神社の遊就館に展示されている)

 1945年2月、硫黄島上陸作戦が開始され、回天も投入されるが、「イ370」、「イ368」が回天もろとも撃沈され、戦果は上がらず、また、3月にはじまった沖縄戦でも回天を搭載した「イ56」、「イ44」が撃沈される。ここにいたって、第6艦隊(潜水艦隊)は、洋上襲撃に作戦を変更する。

 4月には、沖縄〜サイパン間に「イ36」、「イ47」が出撃、回天で輸送船1隻撃沈、2隻撃破の戦果をあげる。さらに5月には「イ367」「イ366」が出撃するが、「イ366」は触雷によって帰投、「イ367」の回天は駆逐艦1を撃破した。また、5月には「イ361」が沖縄へ、6月には「イ36」「イ165」がマリアナへ発進。「イ361」「イ165」は撃沈され、「イ36」のみが敵駆逐艦に制圧されている最中、回天を発射して辛うじて離脱に成功した。もはや、母艦の潜水艦は、回天の発射位置に到達することさえ難しかった。

 7月、最後の戦闘が行われた。「イ53」から発進した回天は、駆逐艦1を撃沈、同撃破。「イ58」は、駆逐艦に損傷を負わせる。そして、皮肉にも通常の魚雷戦で重巡洋艦インディアナポリスを撃沈するという大戦果をあげた。

 なお、終戦時には、本土決戦用に回天用のトンネル基地が設営され、水上艦隊の生き残り(軽巡、駆逐艦)を改造し回天母艦として、夜襲を行う海上挺身隊(海上特攻隊)が組織されていた。

 回天の開発時に、ドイツのロケット戦闘機Me163に使用していた液体ロケット燃料を使用し、燃焼効率をあげ、さらなる高速40ノットを狙った二型、三型(小型化した六型も検討)が試作に着手されたが、機構が複雑すぎる、ロケット燃料がロケット戦闘機の秋水に優先されるなど、様々な理由で計画は放棄された。また、二型の保険として通常の酸素魚雷式にした四型(小型化した五型もあったという)が試作されたが、こちらも中途で放棄された。どちらかというと、この二型や四型こそ、本命であったという説もある。

 さらに、本土決戦用として電池式の92式魚雷を改造した回天十型も試作された。母艦に搭載する必要がないため、制約も無く、全長も9mと小さいが、航続距離はわずかに3000mしかなく、蓄電池の取り扱いも難しかったという。

 

海龍 

潜水艦は、潜航する際には、タンクに注水し、浮上する際には排水する。急速浮上、潜航に時間がかかり過ぎ、空からの敵機の攻撃に対し、急速潜航で逃れることはできないのではないか、という懸念があった。そこで、あらかじめ、補助のタンクに海水を入れ、浮力を少なくしおいて、艇の重心位置に装備した翼に揚力をもたせ、その翼を操作することで、航空機のように浮上、潜航が自在とする、という構想を浅野卯一郎機関中佐(横須賀海軍工作学校教官)は持っていた。

1943年3月、浅野中佐は横須賀海軍工作学校校長の朝隈中将を介し、軍令部へと話を持ち込んだ。当初は、排水量400t、速力25ノット、発射管4門、魚雷12本という大型の潜水艦となる予定であったが、艦政本部は否定的だった。浅野中佐は空技廠に話を持ち込み、模型実験を成功させた。有翼潜水艦はS金物と名づけられた。呉工廠は、甲標的丙型の生産で手一杯であり、浅野中佐の試みに対し否定的だったが渋々付き合わざるを得なかった。時間のかかることを見越し、浅野中佐は関係各位を納得させるため、小型版のS金物の設計を民間の発明家(!)佐野氏に依頼した。排水量15t、エンジンは自動車用の100馬力ディーゼル、そして電動機、電池などは92式魚雷、その他の部品も飛行機などから流用することにした。横浜工専の海軍委託学生も設計に協力した。そして、実際に有翼潜航艇が可能かどうか呉工廠で、甲標的に翼をつけて、試験が行われた。試験では9.5ノット以上は出せないことが判明した。

 まだ諦めない浅野中佐は、小型S金物を本命とし、SS金物(スモールS金物)として試作を続行。しかし、試作については、艦政本部が中止という意見を出してきたので、不屈の浅野中佐は別系統、自身が教官をつとめる工作学校で作ろうと決意、許可をとり、久里浜の工作学校で浅野中佐、佐野氏を中心に開発した。こうして1944年6月、ついに完成したSS金物は幾度か試験を経てようやく実用に耐えうると判断された。ところが、実は魚雷の搭載については未定であった。そこで、外付けの魚雷発射管を搭載することにした。艇本体にレールを追加して、魚雷を取り付けて発射管を装着する。魚雷を発射する際は発射管の最後部の火薬ロケットに点火して、魚雷を押し出し、同時に反動でもって発射管はレールをすべり、後方へと投棄される。無反動砲のような世界に類を見ない構造であった。何回かの実験を経て、ようやくものになった発射管は射出筒と呼称された。

その後、搭乗員の意見を取り入れ、完成したSS金物は20年4月、戦局の悪化のため、藁にもすがる思いだったのか、軍令部次長(小澤次三郎)の鶴の一声で、採用、量産が決定した。

 生産型は、全長約18m、水中排水量19tと、同じ魚雷2発を搭載した蛟龍に比べて小型だった。動力は自動車用の100馬力ディーゼルエンジン及び60馬力エンジンであり、水上約7.5ノット、水中9.8ノットとされたが射出筒を搭載すると4ノットにまで落ち込んだ。低速のため航行艦襲撃は不可能だった。沿岸用兵器で航続距離も短い。水上460海里、水上36マイル。ただ、施回性能はよく、狙ったとおり急速潜航、浮上も可能だったという。(それほどでもなかった、という意見もある)耐圧深度は200mだったが、発射筒は100mと言われている。武装は二式魚雷二発と生産途中に艇首に600kgの爆薬をつめた。魚雷発射後は基地に帰投して、また魚雷を積んで反復出撃する予定だったが、射出筒の生産が間に合わず、そのまま体当たりをするために積まれたという。 

量産、訓練の準備はすでに進められており、既存の部品を流用し、ブロック工法を採用した簡易な構造のため、各工場に発注され、横須賀工廠だけでも、1945年9月までに760基もの量産が予定された。搭乗員は予科錬出身者からとった。海龍の操縦桿は銀河のものを流用しており、また、その操縦桿の操作だけで潜浮上可能なので、搭乗員から水中飛行機などと呼ばれたという。

 悪天候をついて、横須賀から油壷の基地まで、60隻が自力で回航されたが、1隻が行方不明となるにとどまった。終戦間際、誤報により一度、出動したが引き返している。

 海龍の急速潜航を可能とする潜舵は、俗に潜高の名で知られる水中高速潜水艦にも応用された

 

以下に紹介するのは非武装の輸送用潜航艇である。

 

特型運貨筒

1942年秋、ガタルカナルを巡る戦闘において、日本軍は補給に苦しめられた。

潜水艦と駆逐艦による、いわゆる「鼠輸送」が行われたが、損害も多かった。無事、船舶が到着しても、荷揚げ中を狙われることもあり、夜間、潜水艦から発進して敵の目をくらまして輸送する必要が生じた。そのため、甲標的改造の潜航可能な輸送艇、特型運貨筒が建造される。特型運貨筒は12月には量産に移された。全長は約23m。25tの積載量を持つ。速度は6.5ノットと低く、航続距離は5000mと短いが、揚陸のための機材なのでさほど問題とはされなかった。また、操縦も非常に難しかった。潜航はできないが、一時的に敵から姿を隠すため、機関を停止し、沈座が可能だった。基本的に使い捨てである。1943年1月、ガタルカナルに4回ほど輸送成功させ、その後、44年7月にグアムに輸送を成功させた。

 また、同時期に六年式魚雷の推進部を転用した火砲を運搬する艀、運砲筒や、さらに大量の物資を輸送するため、潜水艦に牽引させる曳航式運貨筒(大、中、小)も建造された。

これらは、ラバウルやニューギニアなどで、数回の輸送に成功した。

 

その他、いくつか試作された特殊潜航艇が存在する。

 

Y標的

1944年3月に、黒木博司大尉が考案した。戦局打開のため、ミッドウェイを再攻撃する必要があるとし、真珠湾から出撃する空母を阻止するため、小型潜航艇を水路内に進入させ、頭上通過する空母に体当たりし、撃沈、水路を封鎖するという案が提出された。

探知を防ぐため、艇体は高力黄銅板とし、外面はゴム張りに、海底を這うためのソリなど工夫された。甲標的丙型を改造した試作型では水中騒音対策の他、匍匐操縦のため、前部にも操縦室を設ける他、艇中央部の両脇に空気圧によって機雷を押し出して機雷を放つ機雷敷設筒が設けられることとなった。Y標的は小型の機雷敷設潜水艇となったようである。軍部によって詳細な仕様の変更が行われ、母潜に搭載可能とする他、防音のため、アスベスト塗布や、被磁気性金属の使用など、さらに詰められたが、結局、機雷の振動による誤爆という問題が解決できず、破棄された。

 

震海

前述の回天と同様、1944年4月、軍令部の要望で戦局挽回のための兵器として開発された。回天が丸六金物だったのに対し、震海は丸九金物だった。丸九金物は、1トンの弾頭を搭載し、敵艦の艦艇に爆薬を仕掛けて離脱するという、ちょうど、イギリスのX艇に相当する潜航艇だった。X艇のように水中破壊工作員が弾頭を取り付けるのではなく、艇内から操作して、磁気(電磁石)吸着式の弾頭を取り付ける。全長は12、5m、排水量は約11tと小型で、安全潜航深度は100m。最高速度は水中9ノット、水上6ノットとされているが、速度試験では、増速すると潜航深度を保つのが困難であったという。航続距離は9ノットで40海里、6ノットで70海里とされている。搭乗員は2人であった。操舵は飛行機式操縦棹を流用した。旋回性能も良好であったという。また、10時間の潜航時間を保てた。変わった機能として100mの助走をつけると80cmの暗礁を乗り越えることも可能だった。震海は、特眼鏡と水中聴音機(ソナー)を併用し、敵艦に接触する。弾頭を艦艇に取り付ける実験には成功したものの、水中聴音機がネックとなり、また、現場の「丸六金物(回天)のように直接ぶつからなければ役に立たない」という声もあり、不採用となった。

 

邀撃艇

泊地防衛用の半没式潜行艇。別名はU金物。もはや、遠方の島々に物資を送る余裕などなくなったため、余剰となった特型運貨筒の部品を流用した。もともとは、特型運貨筒のため、最高速力も6ノット、航続距離も2500m〜2000mといった低速短距離である。全長約12m、また、潜航ができないため、海底に鎮座することさえできない。ただ、プカプカと浮いて操縦筒から近づく敵を発見するのみだ。横揺れが大変なものであったという。武装は艇の下部に抱えるように装備された61cm魚雷発射管二基。93式酸素魚雷と8年式魚雷とされている。魚雷は魚雷自身の動力で発射される自走式だった。安定が悪く、片方の魚雷を発射するともう片方を発射するのにひどく時間がかかる。見た目は水上起き上がり小法師のようで、なんともユーモラスであるが、とても実用に耐えうる兵器とは言えないだろう。まだ試作段階であるのに、なぜか20基ほど製作され、訓練も行われていたという。

 

艦隊決戦の切り札の一つとして建造された日本海軍のミゼット・サブマリンだが、泊地攻撃という予想外の使われ方をした。戦果が果々しくなく、ともかく生還率の低い兵器だった。悪化する戦況の中、最終的には泊地防衛兵器となった。また、特攻兵器の回天も思いのほか、確認できる戦果が少ない。(私個人としては、もっと凄まじい兵器、という印象があったので、これは意外だった)

 

 

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