イタリア

 

イタリア海軍の主敵は伝統的にオスマントルコ帝国及びオーストリア・ハンガリー帝国であった。

しかし、第一次世界大戦後、オーストリア・ハンガリー帝国は滅亡し、オスマントルコ帝国も革命によって共和国となってしまった。イタリア海軍は新たにフランス海軍を地中海の覇権を争う仮想敵として戦力を整備しはじめた。第二次世界大戦序盤ではほとんど戦うことなく、フランスはドイツによって降伏させられた。残るイタリア海軍の敵は、アフリカ侵攻を邪魔する、ジブラルタルを拠点としたイギリス海軍地中海艦隊だった。

 地中海は大西洋、太平洋にくらべ、割合、波の穏やかな海である。イタリア海軍は、その特性を活かし、軽快艦艇による攻撃を志向、しばしば成功した。イタリアのミゼット・サブマリンの運用も、その延長線上であり、当然、出現すべくして出現した兵器といえる。 

 

マイアーレ

ミゼット・サブの中でも小型な、人間魚雷を用いた攻撃の第一人者は、なんといってもイタリアだろう。人間魚雷と言っても体当たりのための特攻兵器ではなく、魚雷改造の水中用バイクと言えるものである。潜水服を着込んだ乗員二名がバイクにまたがるように乗り込み、水面すれすれを航行(水面下も航行可能)し、敵泊地に潜入、弾頭部の爆雷を敵艦艇に仕掛けて離脱する。イタリアの人間魚雷は、水中破壊班輸送用の生還を期した兵器だった。

 この人間魚雷は、第一次大戦時にはオーストリア・ハンガリー帝国海軍の戦艦ヴィリプス・ユニティスを撃沈するなど戦果をあげた。第二次世界大戦時にも、同様のマイアーレ(豚)という人間魚雷を開発している。水中を行く人間魚雷に豚とは奇妙な名前だが、時速3ノットしか出ないことからつけられた。全長は6.7m、巡航距離は、わずかに16km、220kgの吸着爆雷を弾頭部に収納した。後期型では、250〜300kgに増加した。

マイアーレの訓練は、1939年の開戦当初から第1機動駆潜艇(魚雷艇)戦隊で行われた。1941年3月、第10機動駆潜艇戦隊としてマイアーレ部隊は独立した。相当の期待がかかっていたのだろう。

1941年9月20日、イギリスの地中海における拠点、ジブラルタル攻撃のため、イタリア潜水艦「シーレ」から発進した三隻のマイアーレの乗員は、それぞれ、停泊中の船舶に爆雷をとりつけ、油槽船2隻、貨物船1隻を撃沈し、脱出に成功した。

さらには、同年、12月18日夜に、同じ潜水艦「シーレ」から三隻のマイアーレがアレキサンドリア港へ進入、停泊中の戦艦、クイーン・エリザベス及び、ヴァリアントを大破着底させ、さらに油槽船を撃沈、駆逐艦を大破させるという大戦果をあげた。乗員は指揮官、デ・ラ・ペンネ大尉以下、全員捕虜となった。1942年から、スペイン領アルヘシラスの油槽船オルテラを基地として、ジブラルタルに停泊中の船舶を攻撃、1943年のイタリア休戦まで14隻を撃破した。

また、ドイツ軍を支援するため、黒海におくられた分遣隊(魚雷艇10隻、マイアーレ6隻)もかなりの戦果をあげたが、うち、ソ連の潜水艦2隻をマイアーレが撃沈したと言われている。結局、第10機動駆潜艇戦隊は、軍艦4隻、その他27隻(総計265352t)も撃沈破した。

1943年9月、休戦後のイタリアは連合国側に立って参戦し、第10機動駆潜艇隊も今度は、ドイツを敵とした。(指揮官のボルケーゼ中佐は一部隊員と魚雷艇5隻をもって、ドイツ側のイタリア・ファシスト共和国に参加し海軍司令になってしまう。最終的に、第10機動駆潜艇師団として1個師団規模の陸兵となってドイツ降伏まで戦い続けた)ドイツ軍が拿捕した重巡ボルツァーノを撃沈(英伊共同)、また、未完成のまま、ドイツ軍が接収した客船改装のイタリア空母アクィラを撃破するなど戦果をあげている。ちなみに、イギリス軍の捕虜になったデ・ラ・ペンネ大尉も復帰して、今度は枢軸側の巡洋艦と潜水艦を撃沈し、イタリア黄金勲章を授与されたが、なんと、勲章をつけたのは、かつて大尉によって大破させられたヴァリアントの艦長その人だったという。一隻も損害を与えられず、捕虜になってしまうなど、何度か失敗もあったものの、マイアーレ部隊は地中海の戦い全期間にわたって、かなりの戦果をあげた。

戦時中、振るわなかったイタリア海軍の中にあって、まるでアクション戦争映画張りの活躍を見せたマイアーレ隊は、まさに文句なしの大金星と言える。

 

小型潜航艇(CA&CB) 

イタリア海軍は、マイアーレのような人間魚雷だけではなく、本格的なミゼット・サブマリンも用いた。1938年から43年にかけて、大型潜水艦に搭載して使用するCA(小型潜航艇A型)が建造された。カプロニ社製、全長10m、速力6〜5ノット、45cm魚雷2基(100kg機雷×8)、乗員2名で、泊地襲撃に用いる予定だったが、マイアーレ隊の成功により、どちらかというと輸送、機雷敷設任務に使われることが想定された。  

そのうちCA2は、1943年にイタリア潜水艦レオナルド・ダ・ヴィンチに搭載され、ニューヨーク港に潜入、水中破壊工作員を下ろし、敵国船舶に吸着爆雷を仕掛けて離脱するという実に大胆な作戦を立てたが、レオナルド・ダ・ヴィンチが撃沈され、作戦実行前に休戦となった。当初は電気モーターとディーゼル機関の併用だったが、機雷敷設任務に用いられるようになってからは撤去された。

CAを発展させたCB(小型潜航艇B型)も建造された。こちらは1940年から22隻が起工される。全長15m、水中排水量44t、45(53.3)cm魚雷2基、もしくは機雷2基、乗員は4〜3名で、速力は7〜7.5ノット、電気モーターのみのCAに比べてディーゼルと併用し、航洋性が優っていた。より本格的な潜水艇であり、哨戒任務や泊地防衛などに用いられた。ルーマニアのコンスタンツァ港を根拠地に黒海などで戦果をあげたが、イタリア休戦後は、いまだ枢軸に立つファシスト・イタリア共和国やドイツ、ルーマニアに接収されてしまった。他に、CM型という全長33mになる、さらに大型の潜水艇も2隻完成していたが、ドイツ軍に接収されてしまいUIT17、18として使用されたという。

inserted by FC2 system