イラク軍小史

 

第一次中東戦争

 イスラエル建国阻止を目的とした1948年の第1次中東戦争に、エジプトやシリアと共にイラク(王国)も参戦する。イラク軍は当時、イタリア製CV35豆戦車1個大隊と数個装甲車中隊を保有していた。しかし、建軍当初のイスラエル国防軍に撃ち破られ、散々な体たらくをさらし、エジプトやシリアにイスラエルとの内通を疑われるほどだった。訓練不足が主な原因であるが、装備にも問題があったと考えられる。薄い装甲と機銃しか持たず、装甲車に毛の生えた程度のCV35豆戦車(1930年代の骨董品)では、無理もない結果だろう。

 

第四次中東戦争(ヨム・キープル戦争) 

 第一次、第二次、第三次とイスラエルに煮え湯を飲まされたアラブ連合側は、ソ連から軍事支援を受けて態勢を立て直す。臥薪嘗胆すること6年、第三次中東戦争の時とは逆にアラブ連合側のイスラエル奇襲で1973年に第四次中東戦争がはじまった。イラクはエジプト・シリア連合軍のイスラエル奇襲攻撃計画を知らず、出遅れた形になったが、軍を派遣した。訓練中の第12機甲旅団を先鋒に第3、第6機甲師団を加えた軍で、T55とセンチュリオンマーク3を300両近く保有していた。ゴラン高原でシリア軍、ヨルダン軍の機甲師団(約1300両)と共にイスラエル軍の精鋭ラナー師団(約170両)に戦いを挑んだが、圧倒的に優勢な兵力にも関わらず大敗を喫した。敗因はイスラエル軍ラナー師団将兵の優秀さもさることながら、アラブ各軍の連携が全くとれず、攻撃の重点を形成できなかったためと言われている。派遣されたイラク軍やヨルダン軍は地図も無く、無線の周波数すら割り当てられていなかったらしい。無計画、拙劣な指揮により、ゴラン高原の大戦車戦はイスラエル軍ラナー師団に名をなさしめただけで終わった。

 

イラン・イラク戦争

 1980年、イラン・イラク戦争が勃発する。58年に王政を打倒し、アラブ社会主義を掲げるバース党に率いられたイラク共和国とペルシア湾の警察官を自負し軍拡を行ってきたイランのパーレヴィ王朝。二国はシャト・アル・アラブ川やOPEC(アラブ石油開発機構)の主導権などを巡り激しく争い、時には国境紛争となった。

 シャー・パーレヴィの欧化政策に反発した民衆はイスラム聖職者集団を支持し、それに反王政組織も同調、革命がおきる。亡命していたホメイニ師が帰還、イラン・イスラム共和国が成立した。ホメイニ師率いるイスラム聖職者集団は中東のシーア派に檄を飛ばし、イスラム革命輸出を叫ぶ。イラクも多数のシーア派を抱えており、ホメイニ師の扇動は脅威だった。イスラム聖職者集団と世俗的な実務派のイラン政府は深刻な対立を抱え、政府が2つ存在するような状況だった。しかも、王制のもとアメリカ・イギリスの最新式兵器(アメリカ以外で唯一F14戦闘機を購入していた!)を揃えた精強なイラン軍は、革命により組織崩壊を起こしつつあり、士気も低下していた。これを機会としたサダム・フセイン大統領は、1980年9月22日、シャト・アル・アラブ川の支配権とアラブ人が多く住むフゼスターン州の奪取を主目的として、侵攻作戦が開始。作戦はイラン空軍基地や石油施設へのイラク空軍(MIG21、23)の奇襲攻撃にはじまる。だが、爆撃は散発的なもので、生き残ったイラン空軍機(F4ファントム、F5タイガー)は、イラクのキルクークの石油施設等に反撃を加える。イラン空軍はイラクのSAM(対空ミサイル)によって大きな被害を出した。23日払暁、イラク軍のT55やT62、BMP1歩兵戦闘車からなる4個機甲、機械化師団が国境線を突破した。主攻は南部のフゼスターン州、助攻は中部のケルマンシャーハン州、中南部のイムラバ州にそれぞれ侵攻する。意外なことに弱体化しているはずのイラン軍の抵抗は激しく、また、イラク軍も戦術の誤りや練度の低さから、近接航空支援などが円滑に行われず予定した電撃戦とはならなかった。それでもイラク軍は物量に物を言わせ南部の要衝ホラムシャハル市を激戦の末、占領。だが、アバダン市ではイラン軍の虎の子、戦闘ヘリAH1部隊が同市防衛に増派され、守備隊と共に反撃、イラク軍は撃退された。間の悪いことにイラン南部で雨期がはじまり、湿地帯と化してしまう。ここでイラク軍の前進は停止した。フゼスターン州の大半を手中におさめたものの、アバダン、デズフル、油田地帯など主要作戦目標の制圧には失敗した。イラク軍版電撃戦、短期決戦計画は挫折した。

双方ともに兵器、弾薬の消耗が激しく、戦線は膠着状態に陥る。この期間にイラクは非同盟志向とイラク共産党弾圧により、悪化していたソ連との関係を修復し、さらにイランの台頭を恐れるアラブ諸国、エジプトやヨルダンからソ連製兵器を取得する。中東に影響力を拡大したいソ連は今までの経緯を水に流し、新型兵器を次々と輸出する大盤振る舞いを見せた。一方、イランはパーレヴィ王朝の残したアメリカ・イギリス製兵器で戦っていたが、弾薬や消耗品の補充がつかずに苦慮していた。アラブ諸国の中でイランに兵器を売却する国はイラクと敵対していたシリア(同じバース党であるが、隣同士ということもあり、アラブ世界における主導権争いが耐えなかった)、奇人カダフィ大佐のリビアくらいしかない。しかし、思わぬ所から売却の申し出があった。シーア派神権政治が行われ、パレスチナ解放を叫ぶイランとは仇敵のはずであるイスラエルだった。イスラエルにとってはアラブの盟主を狙うイラクの方が、イランより脅威であり、同じイスラム教勢力同士が潰し合いを続ける方が好都合だった。イランはなりふり構わずに武器弾薬を求めていた。現実的要請の前には国家イデオロギーさえも霞んでしまう。

 1981年1月5日、イランは世俗派のバニサドル大統領直接指揮のもと中部、南部で反撃に出た。チーフテン戦車やM113装甲車などを装備した機甲、機械化師団を投入した大がかりなもので、不意を突かれたイラク軍は敗退。だが、5日もすると態勢を建て直し、南部スーサンゲルドの湿地帯で両軍合わせて400両もの戦車が激突する大規模な機甲戦が繰り広げられた。結果はソ連式陣地を構築、火網を形成してイラン軍を迎え撃ったイラク軍が勝利し、イラン軍の反撃は失敗に終わった。なお、この際、イラク軍にはMi24ハインド戦闘ヘリが作戦に参加し、猛威をふるったという。聖職者派を出し抜き、自派の政治的優位を手にしようとしたバニサドル大統領の思惑は、裏目に出てしまった。後日、バニサドル大統領は失脚、亡命を余儀なくされ、全ての権力はホメイニ師率いる聖職者派が握った。同年3月、イラン軍は再び反撃に出た。今度は宗教的熱意に燃えたイランの民兵組織、革命防衛隊が先頭に立つ。(正規軍とは別系統であり、ホメイニ師に忠誠を誓う。ナチスドイツの武装親衛隊のような組織)革命防衛隊はアッラー・アクバル(アラーは偉大なり)の叫びと共に地雷原だろうと機関銃座だろうと、味方の死体を踏み越えて突撃を繰り返した。イラク軍は、この犠牲を厭わないカミカゼ人海戦術に恐れをなしてパニックに陥り敗走する。イラン軍の快進撃は続き、フゼスターン州の3分の1を奪回することに成功した。今や攻守は逆転し、イラク兵の士気はガタ落ちとなった。もともとイラクは領土上の問題を解決する短期決戦のつもりでこの戦争に臨み、その期待が裏切られたのだから、当然の結果だった。また、イラクのシーア派歩兵は同じイランのシーア派歩兵と戦うのを忌避した。さらに聖職者が口を挟んだり、革命防衛隊と正規軍の軋轢が問題となるイラン同様、イラクもバース党党員が政治委員として配置されており、その承認がないと作戦行動にうつれない指揮系統の硬直という重大な弊害があった。

雨期を挟んで82年5月、イラン軍はついにホラムシャハルを奪回、イラク軍は敗北に追い込まれる。慌てたイラクはイスラム諸国会議を通じ、停戦を呼びかけるが、イランは停戦条件をつり上げ、協議はものわかれに終わった。(自国にイランの革命が波及するのを恐れていたアラブ諸国は基本的にはイラクを支持していた)7月、イラン軍は逆侵攻作戦を発動。目標はイラク最大の港湾都市バスラ。バスラが陥落すれば、フセイン政権の威信は地に落ち、崩壊することは間違いない。イラク軍はバスラに幅20kmにもわたる地雷原や水壕で守られた堅固な縦深陣地を築き上げ、大量の戦車や砲を配置し、背水の陣を敷いた。イラク軍の設置したソ連式縦深陣地により、イラン軍の総攻撃は破砕された。しかし、イランは相変わらず停戦に応じず、焦燥感にかられたイラクは、イランの石油輸出に被害を与えるためにペルシア湾の封鎖作戦を行った。イラク軍のシュペル・エタンダール攻撃機やヘリからエグゾセミサイルが発射され船舶が被害を受け、撃沈される。

1983年にはイランの石油積み出し港であるカーグ港がイラク空軍によって爆撃されたことで、イランも報復として第三国を巻き込んだタンカー攻撃を行う。サウジアラビアやクウェートがこれを非難したが、戦火はペルシア湾全体に広がる様相を見せつつあった。一方、今まで戦場となっていなかった北部山岳地帯でも、自治を要求するクルド人を巻き込んだ戦闘が行われた。イランは自国内の反ホメイニ体制クルドを弾圧する一方、イラク在のクルド人反イラク組織に援助した。イラクもトルコと共同してクルド人ゲリラを討伐する反面、イランの反ホメイニ体制クルド組織を支援する。

84年2月、中南部の主戦線ではイラン軍の攻勢が続き、バスラ東北の湿原に浮かぶマジヌーン島を奪取するが、そこで力尽き、停止する。この時、イランの人海戦術に苦戦するイラク軍は化学兵器を使用する。ドラム缶に入ったマスタードガスを輸送機から投下するという荒っぽいやり方だった。さらに、イラク軍はバスラ防衛のため秘密兵器を投入した。バクダッドとバスラを結ぶ幹線道路から国境へ10km離れた大湿原を巨大人造湖(幅10km、長さ50km)へと作り変えたのだ。通称、魚の湖。イラク軍は大灌漑工事を密かに行っていたのである。この人造湖により、イラン軍が屍血山河を築いて占領したマジヌーン島も南半分が水没し、得意の人海戦術も使えなくなる。こうして85年には戦局が膠着しはじめ、小競り合いが大半をしめるようになった。イラン軍は打開のためバスラとバクダッドの連絡を切断する作戦を実施するが、空軍の支援を受け、豊富な火力を持つイラク軍の反撃により失敗に終わる。地上戦が膠着状態に陥ると、双方によるタンカー襲撃や石油施設爆撃がエスカレートすると共に、スカッド地対地ミサイルによる都市攻撃の応酬がはじまり、ついに都市部にまで戦火が及んだ。また、イラクのシーア派反体制武装組織にイランが援助、ゲリラ戦も行われた。 

 しかし、86年2月、イラン軍は今まで注目されていなかった最南端部、海上交通の要であり石油輸出基地のファオを電撃的に攻略、ウム・カスル軍港に迫る。自軍の鉄壁の陣地を過信したイラク軍のミスだった。奪回作戦は失敗、報復としてイラク軍は中南部戦線でイランのメヘラーン市を奪取するが、すぐに奪回される。この機に乗じ、バスラを目指すイラン軍の大攻勢が開始されるが、またもや、イラク軍の大防御陣地に阻まれ、失敗に終わった。なお、渡河器材の不足に悩むイラン軍が代用として使ったのは、日本製モーターボートだったという。そして、87年1月にイラン軍は最後のバスラ攻撃を行う。兵力15万人を結集した夜襲作戦だった。相も変わらず突撃を繰り返す革命防衛隊、中には、革命後、人質としていたアメリカ大使館員と交換で手に入れた対戦車ミサイル、日本製オートバイや四輪駆動車(!)を装備した部隊もあった。貴重な戦車や戦闘ヘリ、スカッドミサイルまで惜しげもなく投入された。イランは、59式戦車やF6戦闘機など装備の多くを中国から購入していた。中国製兵器は世界の第一線からは10年以上遅れているが、丈夫で操作し安く第三世界では需要があった。また北朝鮮も外貨稼ぎのため、イランにスカッドミサイルを輸出、軍事顧問団まで送り込んだ。しかし、イラン軍の総力を結集した攻撃は、またもイラク軍によって粉砕される。カミカゼ人海戦術の火力に対する敗北だった。地上戦における進展が望めなくなくなったイランは、ペルシア湾でイラクに圧力を加えるため、中国製対艦ミサイル、シルクワームを配備する。事態を重く見たアメリカは、タンカー護衛のため艦隊を派遣、イラン海軍ミサイル艇と交戦、撃沈し、緊張は一気に高まる。また、アメリカはペルシア湾の通行を危うくするイラン封じ込めのために「対イラン武器禁輸制裁」を世界に呼びかけた。88年4月、イラク軍による総反撃がはじまった。イラク軍最精鋭の共和国防衛隊機甲師団を投入し、まずはファオ半島、続いてバスラ東方を奪回し、一気に国境までの領土を奪回、南部イラン領内へ侵攻する。中部ではイランのメヘラーン市目指して反体制派イラン人ゲリラによる部隊が進撃を続けた。そして首都テヘランにはイラクのスカッドミサイルが集中発射され、家々を瓦礫に変える。もはや軍のみならずイランの士気及び物質的戦力は崩壊寸前だった。イラン最高指導者ホメイニ師は「毒を飲むより苦しい思い」で決断し、国連安保理による停戦決議を1988年7月18日受諾した。そして8月8日小競り合いが終息、足かけ8年にも渡るイラン・イラク戦争は終結を迎えた。

 敗色濃厚のまま停戦を受諾したイランは、大きな路線変更を余儀なくされた。結局、イランはイラク南部にシーア派政権を樹立し、フセイン政権を打倒することに固執し、もっとも有利な停戦の時期を逸してしまった。神懸かりの頑迷固陋な精神主義では、近代戦争に勝利することはおぼつかず、まともな政治的判断すら下せなくなる。外交関係も結べず経済もまた悪化する一方だった。89年のイラン最高指導者ホメイニ師の死をきっかけに政権はハメネイ師とラフサンジャニ大統領率いる穏健現実路線派が掌握することとなる。軍も、聖職者グループの革命防衛隊優先から、正規軍へ指揮系統の一本化が図られた。イラクとの戦争はイランにとっては、現実を認識させ、改革を促すきっかけとなったのだった。 

 一方、戦争を優勢のうちに終わらせたイラクは、停戦決定の際、バクダッドでは祝砲が轟き、勝利ムード一色だったという。しかし、シャト・アル・アラブ川の領有や、フゼスターン州の占領などは戦争の初期段階で頓挫し、短期決戦計画は崩壊した。あまつさえ、イラン軍にバスラ付近に逆侵攻され、ようやく撃退した。とても勝利と言えるような状況ではない。8年に渡る戦争のため、700億ドルにも上る膨大な累積債務を抱えてしまい、イランの援助を受けていた北部山岳地帯の反体制クルド人ゲリラを掃討するために、化学兵器を使用、数千人の犠牲者が出て、イランやトルコに大量のクルド難民が流出した。また、動員解除に伴う失業者の急激な増大など社会問題が発生する。これらの諸問題解決のため、クウェート侵攻が計画され、湾岸戦争、イラク戦争への呼び水になったことを考えると、イラン・イラク戦争はフセイン政権の「終わりの始まり」とも言えよう。

 イラン・イラク双方合わせて100万人近い戦死者を出した、この戦争の影で、ほくそえんだのはイスラエルだった。近い将来脅威になるだろうイラクとイランが消耗し、イスラム教徒同士の根深い対立がさらけ出しているのだから、してやったりという所だろう。

 

クウェート侵攻作戦

イラクがクウェートに侵攻したのには、様々な要因が絡み合っている。一つは歴史的経緯である。近世以降、クウェートはイラクの一部に含まれていた。16世紀にメソポタミアを占領したオスマン・トルコはモスル、バクダッド、バスラの三州を置いて統治していたが、クウェートは当時バスラ州の一部に過ぎなかった。19世紀にサバハ家が台頭しオスマン・トルコの承認を得て統治するが、後に独立を図り1913年に英国の保護領に入る。こうした歴史的経緯のため、イラク王国や共和国のカセム政権もクウェートの領有権を主張していた。クウェート併合の動き自体はなんら目新しくはない。(よく考えてみれば無茶苦茶な主張である。近代法成立以前の国境線の変更を際限なく認めるわけにはいかない。ロシアはモンゴル領に、イギリスはイタリア領に、スペインはチュニジア領になりかねない。似たような失笑ものの論理で、かつて彼の地を割拠した大帝国の最大版図を自国領とし、圧制を敷いている国家が21世紀にもなって存在する。そんな国が国連常任理事国なのだから、始末に負えない)もう一つの狙いは債務帳消しにある。いくら産油国とはいえ、8年にも渡るイラン・イラク戦争の戦費が石油だけでまかなえるわけがなく、イラクの対外債務は総額700億ドルにものぼった。イラクはクウェート占領後、サウジアラビアにも債務帳消しを迫った。さらに債務と関連して石油に関する問題も存在した。表向きのルメイラ油田の盗掘を理由にあげたが、事態はもっと重大かつ切実だった。クウェートは欧米諸国の意向を受け、原油を安価に大量供給してきた。これはイラクにとっては死活問題だった。せっかくイラン・イラク戦争が終了したのに、今やクウェートが安値で原油を売りさばき、イラクの原油は売りたくても売れない。債務の返済もおぼつかない。イラクはOPEC(アラブ石油開発機構)に図り、他のアラブ諸国の支持をとりつけ、原油価格引き上げの方針が決定された。しかし、クウェートはOPECの決定を無視し、原油の廉価販売を続けた。これがフセインの逆鱗に触れた。

 1990年8月2日、イラン・イラク戦争で活躍した4個共和国防衛隊師団が侵攻作戦を開始。ハムラビ機械化歩兵師団及びネブカドネザル歩兵師団は、バスラ高速道路に沿って北方から、メディナ機甲師団及びタワカルナ機械化歩兵師団は、砂漠を横切って西方からクウェート領に侵入する。共和国防衛隊の優良な装備、用意周到な作戦計画、イラン・イラク戦争の経験、クウェート軍に比して26倍という圧倒的な戦力により、侵攻同日にクウェートシティを陥落させる。当然と言えば当然だが圧勝だった。

なお、イラク兵が産院に乱入、保育器の中の赤ん坊を床に叩きつけて殺した、というイラク軍の残虐性を示すとされるエピソードは、クウェート政権に雇われたアメリカの「戦争広告代理店」の捏造ということが、戦後、証明された。“虐殺事件”を証言した看護婦は駐米クウェート大使の娘だったという。また、重油塗れの鳥も、全く関係の無いタンカー事故の映像だった。

 イラクは直ちに国際社会から猛反発を受け、アメリカはサウジアラビアに派兵した。フセイン政権は驚愕した。「アメリカはアラブのことに介入しない」というコメント(国同士の利害の不一致には介入しないということでフセインの完全な誤解)を信じ込んでいたからである。国際社会はイラクのクウェート侵攻を激しく非難したが、一方で、アラブ諸国のほとんどが仲裁の機会を伺い、模様眺めをしていた。

 フセイン政権は、アメリカ軍の派遣を単なる脅しと見なし、クウェートを19番目の州として併合する旨を全世界に向けて発表した。当時、不況に苦しんでいたアメリカは、弱体化した経済がイラク戦費により、圧迫されることを非常に恐れていた。対イラク戦争は下手をすれば恐慌を引き起こしかねないとして、そのため、アメリカ国内でも経済的理由による反対論が多かった。こうした状況を鑑み、アメリカの恫喝にさえ屈しなければ、クウェートにまつわる諸問題を全面解決し、アメリカに立ち向かった指導者としてアラブの盟主になることも夢ではない……フセインの夢想的野望が後押しした。しかし、アメリカはフセインの希望的観測と正反対の判断をくだした。国際社会において、いかなる理由があろうとも侵略は許されない、というメッセージを強く打ち出したのだ。(結局、莫大な戦費は我が日本やサウジアラビア等から調達されたわけだが)

 

湾岸戦争 

 トマホークをはじめとした精密誘導兵器を使用したクリーンなハイテク戦争。お茶の間に流れた映像から誰しも、そのイメージを信じ込んでしまった。だが、湾岸戦争こそ、今までの近代戦争の総仕上げとも言える古典的な物量戦だった。ハイテク戦争はその一要素に過ぎなく、決して実態ではない。

 イラクの制海権、制空権(イラク空軍724機のうち387機を撃破した。121機はイランに避難したが、パイロット、機体ともども返還されず)を掌握したアメリカを中心とする多国籍軍は、クウェート奪回を目標とした地上戦に先立ち、イラク全土の防空網制圧のため、43日間の空爆を行った。イラク軍は、防空要塞と言える異様なまでに発達した防空網を整備していた。対空砲約8500門、レーダーSAM(対空ミサイル)約3600基、赤外線SAM約7400基が1000カ所の防空陣地に配備されていた。防空陣地も重要地区にまとめて構築され、特にバクダッド地区の防空体制は凄まじく、ヨーロッパ随一の防空網を持つ旧ソ連北洋艦隊の母港ムルマンスク軍港のおよそ2倍の規模の対空火器が配備されていた。

 多国籍軍空軍は破壊するには規模の大きすぎる防空網全てを相手とせず、神経中枢である防空管制施設と射程の長いレーダーSAMを撃破し、高度3000m以上を安全空域とした。しかし、その過程で、38機(アメリカ軍機27機)が撃墜された。うち、1機はなんとイラク軍MIG25戦闘機によるものだったという。イラク軍は航空攻勢など思うべくもない状況の中、所有していたスカッドミサイルを積極的に使用した。目標はアメリカ軍基地のあるサウジアラビアに43発、挑発し、参戦させるためにイスラエルに43発、他、バーレンに3発。このほとんどはパトリオット迎撃ミサイルによって撃ち落とされたとしているが、実態は逆であった。パトリオットミサイルは炸裂し、その破片を浴びせることによって敵ミサイルを迎撃するタイプのミサイルであり、全長12メートルのスカッドを破壊することは不可能だった。しかもスカッドは粗悪な作りのため、空中分解し、その破片をパトリオットのレーダーは全てスカッドと判断して迎撃するパトリオットを多く発射していまい、パトリオットによって都市部に被害が出たことさえあったという。また、パトリオットはスカッドを迎撃するのに平均3発以上も使わざるを得なかった。スカッドのもたらした最大の戦果はダーランのアメリカ軍兵舎に落下したものだろう。アメリカ兵の死者28人、負傷者を97人の大被害を与えた。損害を重くみたアメリカ軍はスカッド狩りに攻撃機を多数動員し、2500回以上の出撃をしたが半数程度の撃破に止まった。

 続いて地上軍に対する空爆が行われた。イラク軍は湾岸から西部砂漠にまで伸びた3層にわたる縦深陣地帯「サダムライン」を敷いて多国籍軍を待ちかまえていた。1層目は25個歩兵師団が対戦車壕、火点、地雷原などと共に潜み、2層目は予備の戦車師団など重装備師団8個、3層目はクウェート北部に置かれ精鋭の共和国防衛隊8個師団が展開していた。アメリカ軍はイラク地上軍に対し、いくつかの地域に区切って爆撃を行うキル・ボックス爆撃システムを採用した。特に防空装備の充実した共和国防衛隊機甲師団を狙い、B52重爆撃機で高空から1600発の無誘導クラスター爆弾を投下したが、わずか1パーセント弱の損害しか与えられなかった。これは共和国防衛隊機甲師団が掩蔽壕に守られていたためだった。無理をおして決行されたA10地上攻撃機の昼間低空攻撃もSA13自走対空ミサイルに一日で2機も撃墜され中止となる。いくら重武装、重装甲のA10でも、大量の対空兵器に守られた地上目標を攻撃するのは危険だった。(A10はむしろイラク軍の通常師団、補給路の寸断にこそ、猛威を振るった。この攻撃によるイラク軍の士気の低下は甚だしかった)結局、共和国防衛隊機甲師団には戦略目標の爆撃へ割り振られていたF111爆撃機による夜間精密爆撃が行われた。レーザー誘導爆弾を使用したタンク・プリンキング(戦車叩き=ピアニストが鍵盤を叩くように戦車を潰すというブラックユーモア)と呼ばれたこの攻撃は見事に成功をおさめ、多数のイラク軍戦車が撃破された。共和国防衛隊機甲師団は、それでもなお、75パーセント以上の戦力を保持していた。ちなみに、戦後の調査ではイラク軍の展開兵力を多く見積もりすぎたため、アメリカ軍の発表した大戦果は誤りであったことがわかった。ともかくも「航空攻撃でイラク地上軍50パーセントを壊滅させる」という計画は失敗した。砂漠のような開けた空間でも注意深く掩蔽され、豊富な防空兵器を装備した機甲師団を攻撃することは、容易ではなかった。また、アメリカの空爆によるイラク補給網の寸断も末端では効果をあげたが、大動脈といえる高速道路8号線を中心とした補給路を断ち切るには、ついに至らなかった。イラク軍工兵隊は熾烈な空爆下、迂回路を何カ所も用意し、ユーフラテス河にポンツン橋を浮かべて、なしうる限り最大の努力を傾注し、粘り強く補給路の維持に務めた。

 湾岸戦争中、終始防御に徹したイラク軍だが、一度だけ攻勢をとった。(1月29日〜2月1日)クウェート南部から、3手に別れてサウジアラビア領ハフジに侵攻、占領する。海軍の残存兵力も加わった。これは空爆によるイラク軍、国民の士気低下を恐れたフセイン大統領のデモンストレーション的な作戦だった。しかし、制空権を握られたイラク軍の攻勢が長続きするわけもなく、サウジアラビア軍に奪回される。そして運命の2月24日午前4時、ついに多国籍軍地上部隊が侵攻を開始した。正面のサダムラインをアメリカ軍海兵2個師団が先頭にたってアラブ合同軍と共に突破、クウェートを目指す。平行してアメリカ軍第18空挺軍団がヘリボーン作戦によりイラク軍の主要補給路である高速道路8号線を遮断する。主力である第7軍団は西方から大きく迂回、サダムライン第3層目に布陣している共和国防衛隊を撃滅する、という作戦だった。

 海兵隊2個師団によるサダムラインの突破はわずか一日で成功した。ハリアーやコブラの近接航空支援を受け、工兵が地雷原に通路を切り開き、M1A1やM60が塹壕を掃討した。イラク軍工兵隊が巧妙に敷設した地雷原により、海兵隊はM60戦車7両、M1A1戦車1両、AAV7強襲車2両が擱座させられ、数名の死傷者が出た。補給路の途絶と猛烈な砲爆撃により、大半のイラク兵は戦意を喪失しており、降伏や逃亡が相次いだ。それにも関わらず、なおも果敢に迫撃砲陣地や機関銃陣地から抵抗を続けるイラク兵に対して、アメリカ軍はM9戦闘装甲ドーザーを繰り出し生き埋めにするという戦術をとった。諸説あるが千数百人の兵士が塹壕ごと埋め立てられたという。

 なお、突破したアメリカ軍海兵師団を邀撃したイラク軍第3機甲師団の1個戦車大隊(30両)も臨時配属されたブラボー戦車中隊に全滅させられた。側面を3000メートルから攻撃した時、ちょうど起床ラッパが鳴らされる時間だったので、リヴァリ(起床ラッパ)の戦いと呼ばれる。

 アメリカ第7軍団の砂漠を越えた西方からの攻撃(レフトフック攻勢)を察知したイラク軍の共和国防衛隊司令官アル・ラワイ中将は、今まで多国籍軍の北上に備え、南を向いて布陣していた部隊を移動させた。西方に移動させたのは共和国防衛隊タワカルナ機械化歩兵師団、メディナ機甲師団を中心とした重装備5個師団だった。イラク軍一の名指揮官であるアル・ラワイ中将と優秀なイラク軍工兵隊により、2列の防御陣地帯がワジ・アルバ・ディンに沿って迅速に形成された。ここで優勢なアメリカ軍機甲師団を迎え撃つためにアル・ラワイ中将が採ったのが反斜面防御戦術である。イギリス軍から範をとったこの戦術は、相手の射程の方が長い場合に防御側がとるべき待ち伏せ戦術だった。アメリカ軍M1A1戦車の120ミリ滑空砲の射程は3000m、対してイラク軍T72は1800mしかない。これではアウトレンジから撃破されてしまう。そこで、アル・ラワイ中将麾下のイラク軍は、なだらかな丘状の地形の裏側に陣地を築いた。真正面にはもう一つの丘の斜面が見える。(敵からみた場合、反斜面になる)アメリカ軍戦車部隊がイラク軍正面の丘の頂上に姿を現したその瞬間、空を背景に位置を暴露したところを狙い撃ちにする。また、斜面を下るその時も上面装甲を晒すため、大きなチャンスとなる。イラク軍の陣地はアメリカ軍戦車部隊が越える丘から400〜1000mに敷かれており、イラク軍T72の射程内で攻撃できるように考慮されていた。こうして充分に練り上げられた作戦と慎重な布陣のもと、アメリカ軍を待ち受けたイラク軍だったが、結果は悲惨だった。地図上の経線73イースティングスに沿っているため、『73イースティングの戦い』と呼ばれたこの戦闘でイラク軍は敗北した。数、地形、作戦も有利だったイラク軍だったが、アメリカ軍の戦車兵の高い練度とM1A1の性能(特に優秀な熱映像装置は夜間や悪天候の戦闘で力を発揮した)はイラク軍を遥かに凌いでいた。また、せっかく近接戦闘に持ち込めたのにイラク軍のT72の主砲はその自動装填装置のため、発射速度が遅く、とてもM1A1に太刀打ちできなかった。それでも巧妙な戦術と僅かに存在した優秀な戦車兵のため、M1A1戦車4両を撃破し、同士討ちを惹起させた。この「73イースティングスの戦い」は、作戦としては、イラク軍のとりうる最良のものだった。続いて侵攻するアメリカ軍と迎え撃つイラク軍の間で「ノーフォークの戦い」「メディナ・リッジの戦い」があったが、同様に撃ち破られてしまう。メディナ機甲師団も、反斜面戦術を使用したが、丘陵から離れすぎたところに陣地を構築するという致命的な作戦ミスを犯してしまっていた。また、激しい戦闘でアメリカ軍の同士討ちも多発し、M1A1戦車、M2歩兵戦闘車数両が大破した。

 こうして、メディナ機甲師団及び、タワカルナ機械化歩兵師団は壊滅し、アメリカ軍は戦略通りにクウェート奪還を果たし、2月28日に停戦が発表される。ハムラビ機械化歩兵師団などその他の共和国防衛隊は、辛くも撤退に成功する。これは一重に西方からのアメリカ軍主力、第7軍団の侵攻を見抜き、防御態勢をとったアル・ラワイ中将の対応故だろう。メディナ機甲師団、タワカルナ機械化歩兵師団は撃破されたものの頑強に抵抗したことにより、他の共和国防衛隊師団が撤退する貴重な時間を稼ぎ、結果的に楯となったと言えよう。こうしてアメリカ軍の牙から脱出した共和国防衛隊は、フセイン体制維持に決定的役割を果たしてしまう。

 

湾岸戦争後

湾岸戦争後、クルド人やシーア派の叛乱の火の手があがった。誰もが、もうこれでフセイン政権は終わりだと考えた。しかし、撤退に成功した共和国防衛隊機甲師団が叛乱を鎮圧してしまう。その過程で多くのクルド人やシーア派が虐殺される。

1995年、ドライミ族将校による叛乱が計画されたが事前に発覚、首謀者は死刑となった。首謀者の切断された死体が送り返されてきたことでドライミ族は激怒、ドライミ族将校率いる共和国防衛隊1個大隊が刑務所などを攻撃した。叛乱部隊はすぐに鎮圧されたが、これにより共和国防衛隊の粛正が行われた。

1999年1月、多国籍軍による「砂漠の狐」空爆作戦が行われレーダー基地その他が破壊される。2000年10月、共和国防衛隊機甲師団がシリア国境の100km以内に移動した。配備の主目的は、イスラエルに蹂躙されるパレスチナへの精神的な支援のためである。あくまで政治的ポーズであったが。

これとは別に対イスラエル戦争を想定して、民兵組織、サダム・フェダイーンや共和国防衛隊から兵員を集め、シリアとの国境に2個師団強の新編の軍を配備した。またフセイン大統領の次男クサイは、イスラエル攻撃におけるシリア・イラク間の軍事協力と危機対応計画の審議をシリアと行った。双方は、統合指揮・統制センターを設置し、2個イラク機甲師団をシリア領内に駐屯させることに同意した。 

 

イラク戦争 

国連の大量破壊兵器査察問題でイラクが拒否し続けたため、国連安保理の決議を受けてアメリカは侵攻を決意した。アメリカは、イラクが必ずや大量破壊兵器を隠しもっていると確信していた。最も大きな要因は911テロであろう。アメリカはイラクがテロを支援していると誤認した。もし、911テロなかりせば、1999年と同様、空爆くらいですんだかもしれない。

防衛側のイラク軍は、イラン・イラク戦争や湾岸戦争で優秀な士官や下士官を失い、長年、経済制裁を受けていたせいで装備は甚だしく老朽化していた。一方のアメリカ軍はRMA(軍事革命)と言われる軍の情報ネットワーク化に成功しており、物量戦の湾岸戦争の頃から格段に進歩していた。例えば、当時20パーセントしか使用されなかった精密誘導兵器は、ほとんどの攻撃機に搭載された。また戦車、歩兵、砲兵、戦闘ヘリコプターなどの各部隊はデータリンクされたことで、全体の戦闘効率は飛躍的に上昇していた。

 政権中枢への精密誘導兵器の集中攻撃と、M1A1やAH64部隊で増強され一路、バグダッドを目指すアメリカ第3歩兵師団(機械化)とアメリカ第1海兵師団の快進撃「サンダー・ラン」の前に、イラク軍は精鋭、共和国防衛隊を含めて脆くも崩れ去った。共和国防衛隊や特別共和国防衛隊、民兵組織サダム・フェダイーンなどの部隊のうち、一握りが抵抗したに過ぎない。ほとんどの部隊は戦意を失い、自然消滅してしまった。戦闘に参加せず現位置に止まる部隊や将軍などが逃亡するケースも多かったという。精密誘導兵器による指揮系統の寸断の他、事前のCIAによる切り崩し工作が、かなり成功したと思われる。アラブの軍隊では、しばしば、将軍が不在で命令が届かないと、勝手に解散してしまうという傾向があるため、効果は絶大だった。携帯電話を駆使した待ち伏せにより、対空砲でAH64の部隊にかなりの損害を与えるなど、全くの無抵抗というわけではないが、

戦意旺盛な小部隊による抵抗であり、あくまで個人の武勇伝の範疇にとどまる。バグダッド市街戦も指揮系統が崩壊し、各部隊の連携がとれなかった他、アメリカ軍のスピードが早すぎ、邀撃準備がほとんどなされなかったため、起こらなかった。なんなく、バクダッドを攻略したはずのアメリカ軍だが、実は補給で深刻な問題を抱えていた。また、RMAによって兵力の極端な省力化が可能と信じ込んでしまったきらいがある。(結局、直接戦闘に従事する兵士の数は減らせない。民間人を巻き込まないようにしなければならない市街不正規戦となると、砲兵や航空支援の効率を最大にしても、兵士の損耗は抑えられない。兵員の代替をする無人兵器の需要がはっきりとした。人的損害(コスト)の削減はこれからの兵器の大きな課題である)イラクの占領政策はその後、数年間の泥沼にはまり、多くのアメリカ兵及び同盟国兵士が戦場に倒れた。

 国連安保理の審議を経て、アメリカが最も大きな侵攻の理由とした大量破壊兵器は結局どうなったのか。大量破壊兵器の開発はとうの昔に頓挫していた。戦後、なぜ、これらの兵器を隠匿していると見なされるような不可解な行動をとったのか、という問いに対し、拘束されたフセインは、対イラン向けだったと語っている。イランの復讐を非常に恐れており、抑止力として大量破壊兵器を持っているように見せかけたという。そうであったとすれば、非常に皮肉な話になる。大量破壊兵器を持っているか、持っていないかわからなく、おそらく持つ準備がある国よりも、はっきり持っていると宣言している国の方が安全なのだ。北朝鮮もイランも大いに学ぶところがあっただろう。彼等はよく学習した。核兵器さえ持てば大国から攻撃される心配は要らないし、内政干渉を受けることもない。自国の立場を強化し、強国の仲間入りが叶うのではないか?冷戦初期に戻ったかのような思考法が今再び、世界をうろつきはじめた。

 

イラク以後

安定化のための戦争は、より不安定化を推し進めてしまったと言えなくも無い。今回の戦争がアメリカや世界に大きなトラウマを与え、サダム・フセインや現在、危険視されている北朝鮮、イラン、アルカイダなどよりも、世界に大きな損害を与え、経済並びに軍事力を背景に勢力を拡張することを狙うテロ大国が侵略を行った場合、世界各国が武力行使を行うことを躊躇してしまう危険性が大変に大きい。ヒトラーを見逃してしまった誤った宥和政策が適応される可能性が出てきたと言える。

いくら大国であり、経済的に重要な国家であっても、いや、あるからこそ、内政干渉を盾にとって、民主主義、法治主義、基本的人権を無視してはならない。また、そのような国家に硬軟両面の圧力を加え、変えていく努力を怠ってはならない。相手が大国だからと言って躊躇する必要など無い。当然、私たちも近代国家の構成員とて、私たち自身の国や同盟国で民主主義、法治主義、基本的人権が守られ、発展されているかを常に検討し、政府を監視せねばなるまい。基本的な価値観を同じくする国々が増えれば、時に国益が対立しても、互いに責任を負い、忠告し合い、世界をよりよい方向にむけていくこともできよう。甘すぎる、綺麗ごと過ぎるだろうが、所詮、国益だけだと形振り構わず強国同士がナントカ共栄圏を作って対立しあったり、宗教政権や世界同時革命政権に支配されたり、戦国時代や中世に逆戻りするよりかは、マシではなかろうか。近代の超克や、ポスト近代が話題になったりするが、実のところ、近代(民主主義、法治主義、基本的人権)は未完成ではないだろうか。19世紀にすら入っていない国の方が世界には多い。その認識に立って一歩一歩進めていく他は無いような気がする。

ウンザリするほど迂遠な道程、独創性の欠片も無い凡庸な手法、胡散臭い綺麗事で理想主義と嘲笑われる理念の追求。それくらいしか、有効な手段は無いのではないか。21世紀、不幸にして戦争になる場合、湾岸〜イラク戦争のような、近代国家と未、もしくは反近代国家及び集団との戦争が想定される。問題になるのは近代国家側の責任だろう。果たして責任を取りきるだけの力や理念があるか。湾岸戦争は明白な侵略に対する懲罰であり、説明責任については文句無いだろう。しかし、イラク戦争ではどうであったか。あまりに拙劣な、そして多くの近代国家の人々に疑念を抱かせるものではなかったか。事後の処理も甚だまずいものだった。安易な国益追求に摩り替えたり、挑戦してきた未、反近代国家または集団に統治されている人々に、多大な不幸をもたらすような結果は避けたい。言ってみれば敵側は人質をとっている犯罪者のようなものなのだ。人々を人質にとられているだけでなく、近代そのものも人質にとられている。戦争とは理念もまた、挑戦を受けるものである。それに対抗し、未来の戦争は、自軍の損耗を抑えると共に、より警察的な形(非殺傷兵器、無力化兵器)をとるのかもしれない。とりとめのない締めくくりではあるが、この湾岸〜イラク戦争は、は今後の戦争にとって画期的な結節点であることは間違いない。

 

 

 

2003年同人誌版初出。当時は偏狭な思考(反米、反資本主義〜社会主義者を自称)を持つ共同執筆者に迎合し、大変ひどい内容になってしまった。また、当時、私自身も単純なアメリカ批判に同調するところがあった。猛省し、全面的な改稿をさせていただいた。なお、共同執筆者とは完全に袂を別っている。

   

 

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