古代インド諸王朝の戦象 

 

インド象は紀元前一五〇〇年頃からすでに使役されていた。象は家畜か?という問いには少々疑問がある。家畜の定義の中に飼育下での繁殖があげられるためだ。象はどういうわけか人間の飼育下では繁殖しないと言われてきた。そのため、かつて戦象部隊を保有したインドの諸王は、森一つを囲い込んで象を飼育し、必要に応じてそこから戦象部隊を編成していた。現在もミャンマーで民族独立闘争を戦っているカレン族がこの方法で象を使役している。象は四歳まで親もとで育てられ、それから象使いの監督下に入る。ちょうど野生の象もこの頃には親離れして、群の中で育てられるので、比較的自然の法則にのっとった手段といえる。象を捕獲する方法としてギリシア人史家、アッリアノスは、飼われた象の群で、野生象を包囲して群ごと捕獲する方法を述べている。また、後の時代になるが、イスラム世界の大旅行家、イブン・バトゥータは、その著作でインドにおける象の捕獲法を紹介している。それによると、落とし穴に象を追い込んだ後、睡眠をとらせず、食料も与えない。穴には、象を苛める役の人間と庇う役の人間が交互に降りていき、象を叩き、また逆に助ける。これにより象は「いい人間もいる」ということを教え込まされる。最後に消耗しきった象を穴から出し、飼われた別の象が人間の手から餌をもらうところを見せつけ、人間が危険ではないことを教え込み警戒を解かせる。まるで刑事ドラマに描かれる俗っぽい取調べのようで、なんとも因循姑息だが、象の如く知能の高い動物を捕らえ調教するには、かなりの用意周到さが必要であることが理解できる。しかし、煩雑ともいえる手段をとってなお、半数の象が捕らえられる過程で死ぬという。

こうして捕らえた象を自在に操る象使い(マホウト)はアンカス(アンクーシャ)という専用の鍵状の突き棒を使った。巨大な厚皮生物である象は鞭で叩いた程度では気づかないため、このアンカスが必要となる。ただ実際にアンカスを使うのは訓練の時のみで、調教がすんだ象は右方向は右側頭部を、左方向は左側頭部を軽く蹴るというように足で動かす。一流の象使いは声だけで象を操る。

象の飼育と調教の方法が確立すると同時に、インドでは戦争における運用がはじまった。もっとも最初の戦象は指揮官が戦場を俯瞰する望楼として用いられた。前五世紀頃の仏教興起時代に入るとガンジス川中下流域に中央集権型の国家が台頭しはじめる。十六大国時代と言われるこの時代は、中国の春秋戦国時代に類似しており、さまざまな思想が生まれ官僚制度や軍制が整えられた。軍は歩兵、騎兵、戦車、戦象の四軍から編成され、戦車にとってかわって戦象が主力となる。戦象を集団突撃させる際には大麻、阿片、酒などを与え凶暴化させて投入した。この方法は後に一般的なものになる。

マガダ国では戦象を活用してコーサラ国やリッチャヴィ族と戦い併合した。また、ナンダ朝では三千頭の大規模な戦象部隊を保有していたという。当時の編成では戦象一頭につき十二人の兵士が配備されていた。一頭に四人が乗り(一人が象使いで他の三人が戦闘員である)、象の足一本につき、二人が随伴歩兵として象の足元を護衛する。三象が最小戦闘単位であると記されていることから、戦象三頭と三十六人の兵士が一個戦象小隊(?)となった。戦象は平原の戦闘で敵を蹴散らすだけでなく、対攻城用にも使用される。インドの急ごしらえの砦は木と泥を固めて作られており、戦象の体当たりで破壊することも充分可能だった。生ける破城槌として特別に訓練、編成された戦象部隊はギリシアの歴史家の目にとまり「テイコカタリテス」と記録されている。軍事力の根幹として重視された戦象は王が飼育、訓練など管理を独占していた。

前三二〇年、ナンダ朝を倒したチャンドラグプタ王はマウリヤ朝を創始する。インド初のガンジス・インダス両流域とデカン高原の一部を併合した「帝国」であるマウリヤ朝は、九千頭もの戦象を擁していたと記録された。また、セレウコス朝シリアの大使としてインドに派遣されたメガステネスによると、チャンドラグプタの親衛隊には二十四頭の選り抜きの戦象が配備され、王の降臨の際には鼻を高くあげて敬礼するようしつけられていたという。 

 

アレクサンドロスを迎え撃った戦象

主にインドで運用されていた戦象が、オリエントからギリシア、北アフリカにまで広がったのはマケドニア王アレクサンドロスの東征によるところが大きい。戦史に名高い前三三一年のガウガメラの戦いでアレクサンドロスに敗れたアケメネス朝ペルシアのダレイオス三世は、インドから献上された十五頭の戦象を親衛隊の前面に配置していた。ダレイオス三世はオリエントで初めて戦象を保有した君主であると言われているが、この戦象部隊は何ら戦局に寄与しなかった。単にマケドニア軍を脅す目的で配置されていたのかもしれない。宿敵アケメネス朝ペルシアを倒したアレクサンドロスは、さらに東進しインドに到達する。ヒュダスペス川河畔でアレクサンドロス率いるマケドニア軍の歩兵一万五千、騎兵五千と対峙したのは、インド王ポーヴァラ(ちなみにポーヴァラとは人名ではなく称号に近い)が集結させたおよそ三万の歩兵と四千の騎兵に加え、戦車四百二十両、戦象二百頭以上もの大軍だった。ポーヴァラの戦象部隊は川に沿って一列に並び、戦象を見慣れていないマケドニア軍の馬は二百頭以上の象があげる独特の咆吼に怯え出す。アレクサンドロスは陽動作戦を行い、夜半に上流から渡河し、インド軍の展開している対岸に布陣した。アレクサンドロスの意図に気がついたポーヴァラは迎撃態勢を整える。第一線には戦象二百頭を三十m以下の間隔で配置、二線目には密集歩兵隊を、その両翼に騎兵隊と戦車隊を配置した。ポーヴァラは騎兵を差し向けるが逆にマケドニア騎兵に打ち破られ、戦車部隊も壊滅する。このとき戦象部隊が投入され、ファランクスを組んだマケドニア軍密集歩兵隊を踏み破った。これに対しマケドニア軽歩兵は斧で戦象のアキレス腱を切り、また矢や石などで、象使いを攻撃する。恐慌状態に陥った戦象は追随してきた密集隊形のインド軍を踏み潰しはじめ、戦場は混乱を極めた。傷ついた戦象が疲労し戦闘から脱落すると、マケドニア軍は再び戦列を立て直し、残存インド騎兵と歩兵を攻撃した。同時に陽動として対岸に残していたマケドニア軍が渡河し、側面を突かれたポーヴァラの軍は追い詰められていく。ポーヴァラの乗る戦象は特に賢い上、忠誠心に厚く、負傷したポーヴァラを自ら降ろし、突き刺さった矢を鼻で引き抜いたという。ポーヴァラの降伏により戦闘は終結した。勝利したアレクサンドロスは、ポーヴァラの戦象をはじめとして鹵獲した多数の戦象を従えバビロンに凱旋した。

結局、アレクサンドロスは戦象を「敵にとってより、味方にとって危険をもたらす」とし、敵から捕獲した戦象を戦場で運用することは一度もなかった。実はポーヴァラとの戦闘以前にアレクサンドロスは、タクシラ王から献上された象やアッサケノイ人との戦闘で捕獲した象、また、インドに入ってからの象狩で得た象など、かなりの数の象を入手していた。しかし、これらは全て輜重部隊で使用された。アレクサンドロスが精鋭のマケドニア軍を中核としてインドまでの征服を遂行したことを考えると、味方の精兵を踏み潰しかねない戦象は危険以外の何ものでもなかったのだろう。

 

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