ヘレニズム諸王朝の戦象

 

アレクサンドロスの死後、彼の元部下である将軍たちは、アレクサンドロスの後継者の地位を巡って抗争を繰り広げた。これをディアドコイ(継承者)戦争という。ギリシアをはるか離れた東方の地でマケドニア軍が遭遇した戦象の大部隊は打ち破られたが、その姿は脅威として記憶された。戦象を運用しなかったアレクサンドロスとは対照的に、彼の元部下たちはディアドコイ戦争で実に多くの戦象を運用する。前三一八年、マケドニアの摂政ポリュスペルコンは六十四頭の戦象を含む軍を率い、メガロポリスを包囲したが、防衛軍は釘を植えた板を並べて対抗した。釘を踏んだ戦象は暴れ狂い、マケドニア軍に損害を与えた。前三一七年、隻眼の老将、アンティゴノス率いる軍とエウメネス軍が戦ったパラエタケネの戦いでは、双方により大規模な戦象部隊が使用された。だが、戦象部隊が側面からの攻撃に弱いということ以外は記録に残っていない。戦況にはあまり貢献しなかったと考えられ、戦闘自体も引き分けに終わった。しかし、前三一五年ガダマルタの戦いにおいて、ついにアンティゴノス軍はエウメネス軍を決定的に撃破し、その戦象部隊を自軍に編入する。エウメネスは捕らえられ処刑された。前三一二年のガザの戦いでは、エジプトを支配したプトレマイオス朝の創始者であるプトレマイオス一世の軍とデメトリオス軍が戦ったが、この際、デメトリオスは戦象を騎兵とともに左翼に集中配備した。それに対抗して、プトレマイオス一世は、右翼に兵力を集中、戦象を阻止するために鎖で連結した杭を装備した軽歩兵を展開させる。突撃する戦象に対し、プトレマイオス朝エジプト軍の軽歩兵は、戦象の脚に杭を絡ませることで動きを封じ、弓矢や投げ槍で象使いや乗り手を狙い戦象部隊を撃破する。戦象部隊の壊滅でデメトリオス軍は動揺し、総崩れとなって敗走した。

一方、前三〇五年、シリアに割拠しセレウコス朝を開いたセレウコス・ニカトルはアレクサンドロスの後継者としてインドに攻め込むが、マウリヤ朝開祖のチャンドラグプタに撃退される。チャンドラグプタと講和条約を結んだセレウコス・ニカトルは、現アフガニスタンの領土と交換に五百頭の戦象を入手した。こうして、大規模な戦象部隊を編成したセレウコス・ニカトルは大エレファンタルコス、戦象部隊隊長と仇名されたという。前三〇一年、イプソスの地でセレウコス・ニカトルはアンティゴノスと雌雄を決する。兵力はセレウコス朝シリア軍が七万四千(騎兵一万、戦象四百頭)アンティゴノス軍が八万以上(騎兵一万、戦象七十五頭)という大軍同士の激突となった。インドから手に入れた戦象の大部隊は、いかんなくその威力を発揮し、アンティゴノス軍の騎兵と歩兵を分断してセレウコス朝シリア軍を勝利に導いた。アンティゴノスもこの戦闘で敗死した。二代目のセレウコス朝シリア王アンティオコス一世は、ボスポラス海峡を渡り大挙して小アジアから侵攻したガラテア人(ケルト人)に対し、戦象を繰り出して対抗する。戦象部隊は象を見たことのないガラテア人(特にその騎兵)を恐慌状態に突き落とし、完全に蹂躙した。この大勝利により、アンティオコス一世はソテル(救済者)の称号を名乗り、戦象の活躍を讃えるため戦勝記念碑として象の彫像を建てさせたという。

前二四二年、メガラを攻囲したマケドニア王アンティゴノス二世の戦象部隊を、防衛部隊は奇想天外な戦術で撃退する。豚に松脂を塗り、火をつけて放したのだ。豚の凄まじい鳴き声に戦象部隊は混乱し戦闘どころではなく撤退する。

ディアドコイ戦争に勝利し、アレクサンドロスの征服した地を継承したセレウコス朝シリアとプトレマイオス朝エジプトは、度々、干戈を交えた。セレウコス朝シリアが戦象の配備に心を砕いたようにプトレマイオス朝エジプトも戦象を重視する。セレウコス朝シリアの台頭によりアジアからの輸入ルートが途絶えたので、アフリカのサヘル象を大規模に狩り集めて、専用の船に乗せてエジプトに輸送、巨大な戦象飼育農場を作った。前二一七年のラフィアの戦いでは、アンティオコス三世(大王)のセレウコス朝シリア軍(歩兵六万二千、騎兵六千、戦象百二頭)に対しプトレマイオス四世のプトレマイオス朝エジプト軍(歩兵七千、騎兵五千、戦象七十三頭)が迎え撃つ。この戦いでは史上稀なセレウコス朝シリア軍のインド象VSプトレマイオス朝エジプト軍のサヘル象の戦闘が繰り広げられる。セレウコス朝シリア軍のインド象は鮮やかな赤い顔料で塗られ、鈴やダチョウの羽などの装身具で飾られた満艦飾状態だった。戦象同士は「互いに牙で相手を押さえ込み、相手の向きを変えようと押し合い、強い方が長い鼻で相手の向きを変え、脇腹に牙を突き立て」実に激しく戦った。戦闘自体は、数も少なく、体格でも劣るサヘル象を装備していたプトレマイオス朝エジプト軍の勝利に終わったことから、戦象が決定的な勝因ではなく、エジプト原住民の部隊の勇戦によるところが大きかったようだ。ちなみに、ラフィアの戦いを記述したギリシア人史家、ポリュビュオスによると、力と知能の両方でインド象の方がサヘル象より戦象として優れているとした。実際、戦う前にインド象の咆吼に恐れをなして逃げ出すサヘル象もいたらしい。よく人に慣れ、体格も優れているインド象の方が戦象としての働きが期待できたと考えられるので、ポリュビュオスもこうした評価を下したのだろう。  

アレクサンドロスの遺したヘレニズム世界で活躍した戦象だが、聖書の中にもその姿を見せた。旧約聖書外典のマカバイ書はセレウコス朝の支配に対して決起したユダヤ教徒の戦いを描いている。前一六三年のベトカザリアの戦いをモデルにした章で、エレアザル・アワランがセレウコス朝の王家の紋章をつけた指揮官用の戦象の腹を突き刺し、見事に倒すものの、自分も戦象の下敷きになって死ぬ、という一節がある。

 

 

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