ポルシェ博士の電動鋼鉄戦象 エレファントの戦歴

 

1.誕生

第二次世界大戦において幾多の伝説を生んだドイツ軍のティーガー重戦車は、ポルシェとヘンシェルの二社で競作された。VK4501(P)の最大の特徴は、エンジンで発電機を回し電動モーターを稼動させるその駆動方式にあった。これによりトランスミッションが不要となり、無段階変速が可能となる。(電車と同様である)ポルシェの電動モーター駆動方式は、先進的なアイディアではあったが、故障が多発し、兵器としては未完成だった。双方の試作車のトライアルが行われた結果、オーソドックスなヘンシェル社のVK4501(H)が採用される。(ちなみにティーガーの砲塔はポルシェのものが採用となる)

しかし、敗れたポルシェは早手回しに、車体をニーベルンゲン社に発注していた。そこで、この車体は主砲に71口径8.8cm対戦車砲PaK43を装備した固定式戦闘室、200mmの前面装甲を持つ重突撃砲の開発計画に転用されることとなる。車内のレイアウトが変えられ、後部の戦闘室と操縦席の間に機関室が設置された。本車は、ポルシェ博士の名前にちなみ「フェアディナント」と命名、90両が生産され第656重戦車駆逐連隊(第653、654重戦車駆逐大隊)に装備される。

フェアディナントは、回転砲塔を持たないため、自走砲といえるが、従来の戦車の車体を利用したこの自走砲にも、対戦車砲を搭載したオープントップの対戦車自走砲、密閉戦闘室を持ち、歩兵を支援する榴弾砲を装備した突撃砲、そしてより強力な敵戦車を撃破するため、さらに装甲が強化された駆逐戦車の三種が存在した。フェアディナントは駆逐戦車に分類されるが、開発当初は駆逐戦車という用語が存在しなかったため、重突撃砲と呼ばれていたようだ。第656重戦車駆逐連隊も、その前身はV号突撃砲を装備した第197突撃砲大隊だった。

 

2.クルスク戦

第656重戦車駆逐連隊は1943年7月のクルスク戦へ投入され、ソヴィエト軍の塹壕陣地を突破した。フェアディナントは巨大な破城鎚としての効果を発揮し、陣地に篭るソヴィエト軍を叩き潰していく。しかし、足回りの弱さ(意外なことに複雑な電気系統及びエンジンの故障は緒戦においては、それほどでもなかったという)と前面機銃が装備されていなかったことにより、ソヴィエト軍歩兵の肉薄攻撃に苦戦する。ソヴィエト軍の浴びせる猛砲火をフェアディナントは凌げたが、歩兵が追随できず孤立してしまったのだ。第654重戦車駆逐大隊に所属するある車両の車長は、窮余の一策として、MG42機関銃を車内に持ち込み、8.8cm砲を銃眼として掃射したが、焼け石に水だった。

フェアディナントがソヴィエト軍に与えたショックは絶大であり、フェアディナントは、いつの間にかドイツの突撃砲や駆逐戦車の代名詞になってしまっていた。第二次世界大戦後のソヴィエト軍戦車兵の聞き取り調査を総計すると、3000両ものフェアディナントがソヴィエト軍によって撃破されているというとんでもない数字が出てきてしまったらしい。

フェアディナントを有する第656重戦車駆逐連隊は、クルスク戦の7月5日から27日までの間、ソヴィエト軍の戦車502両をはじめ、多数の車両、火砲を撃破する。しかし、損害も大きくフェアディナントの車両残存数は54両、そのうち稼動車両は僅か25両という有様だった。

その後、第656重戦車駆逐連隊は、撤退するドイツ軍を援護するため、サポロジェ、ニーコポリ橋頭堡と転戦する。稼動率は相変わらず低かったが数両のフェアディナントが、1日で54両の敵戦車を撃破した他、僅か3両のフェアディナントが来襲した70両の敵戦車のうち47両を撃破するなど、大戦果をあげソヴィエト軍に出血を強いた。第656重戦車駆逐連隊は、1943年12月本国へ帰還し、再編成される。

 

3.エレファント

フェアディナントはクルスク戦の戦訓を取り入れニーベルンゲン製作所で改修を受けた。近接防御戦闘に備え、無線手用の機関銃が車体前面に追加され、車長用キューポラも新型を装備、エンジン及びエンジングリルも交換される。車体には対吸着地雷用のツィンメリットコーティングが施された。なお、改装を受けたのは48両だった。

第653重戦車駆逐大隊の第1中隊はフェアディナント11両を装備し、1944年2月にイタリア戦線に向かう。1944年5月、総統大本営からの命令でフェアディナントはエレファントと改称されることになった。ティーガーやパンターといったドイツ軍の誇る戦車に合わせてフェアディナントも猛獣の名を冠したわけだが、他の装甲戦闘車両に比べ群を抜いた重量と無骨な巨体は確かに象を連想させるし、長砲身8.8cm砲は長い鼻や牙に見たてられる。なかなかのネーミングセンスといえよう。イタリア戦線のエレファントは連合軍の砲爆撃に悩まされ苦戦し、全損してしまった。撤退中に遺棄され、アメリカ軍に捕獲されたエレファントが今もアバディーン戦車博物館に展示されている。

一方、第653重戦車駆逐大隊の第2、第3中隊は、34両のエレファントで、1944年4月に東部戦線のタルノーポリに進出する。(なお、第654重戦車駆逐大隊はヤークトパンターに機種転換するため、兵員のみ西方に移動した。)だが東部戦線はもはや崩壊しかけており、ソヴィエト軍の猛攻を凌ぎつつ後退に後退を重ねる。撤退中のエレファントには故障が多発し、また、泥濘地やエレファントの重量が耐えられない橋の前で、爆破処分せざるを得ない車両が続出。同年7月末までには装備車両の60パーセント近くを失った。

残余のエレファントを装備した第2中隊は、1944年12月に独立第614重戦車駆逐中隊と改称され、ポーランドのキールツァで撤退戦を戦う。エレファントの正面の重装甲はスターリンU型の122mm砲の集中射撃を尽く跳ね返し、殺到するソヴィエト軍の戦車部隊に手痛い損害を与える。

 

4.終焉

1945年4月にはエレファント2両が第71戦車猟兵大隊に装備され、海軍第2歩兵師団と共に、ドイツ国内のエセンで圧倒的なイギリス軍相手に奮戦した。最後のエレファントは、1945年5月のベルリン攻防戦に加わる。独立第614重戦車駆逐中隊(エレファント4両)のうち、2両は故障のためケーニヒヴスターハウゼン、ツォッセンの陣地に残置、残る2両はベルリン市内で戦闘に参加し、ソヴィエト軍に捕獲された。

他、モルトケ戦闘団に編入されたクンマースドルフ装甲中隊がエレファントを1両装備している。本中隊はクンマースドルフの戦車実験場から臨時編成された部隊のため、ケーニヒスティーガーやパンター、W号戦車他、鹵獲したアメリカのシャーマン戦車や旧式のV号戦車など様々な戦車(あの超重戦車マウスを装備していたとの説もあるが、定かではない)を10両程度装備していた。このエレファントは、移動不能で装甲トーチカとして戦ったらしい。クンマースドルフ装甲中隊自体は押し寄せるソヴィエト軍戦車部隊に一蹴されてしまう。ベルリンの街路で鋼鉄の戦象たちが息絶えた時、ドイツ第三帝国の命運も尽きた。  

戦後、エレファントのような重駆逐戦車は、試作車両等は作られたものの、取り回しやすい対戦車ミサイル装備の対戦車駆逐車両や対戦車ヘリコプターにとって代わられ、絶滅した。敵戦車を撃破するため戦車をも凌駕する重装甲、重武装を施された固定戦闘室の戦闘車両……ある意味矛盾した存在であるエレファントをはじめとした重駆逐戦車は第二次世界大戦が生み出した鬼子だったのかもしれない。

 

 

 

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