カルタゴの戦象

 

古代史を紐解けば必ず目にするのが、新興ローマと通商国家カルタゴの地中海の覇権を巡る激突である。この戦いで、北アフリカに位置するカルタゴはサヘル象を戦象として運用した。カルタゴが戦象を採用したのは、エペイロス王ピュロスやカルタゴとは地理的に近いプトレマイオス朝エジプトの影響が大きいと考えられる。戦象はアフリカ産のサヘル象だったが、象使いが「インドス」と呼ばれていたことや、インド風の服装をしていたことが当時の貨幣などから確認できるため、インド人の象使いが戦象を操ったか、もしくは教官をつとめていたことがうかがえる。

 

第一次ポエニ戦争(前二六五年〜前二四一年)

前二五六年、エクムノス岬の海戦に大勝したローマ軍は、ついに北アフリカ本土に上陸する。執政官レグルス率いる二万のローマ軍はカルタゴ軍を撃破し、次々とアフリカの諸都市を陥落させた。勝利を確信したレグルスは援軍を待たずに、カルタゴ攻略にとりかかるため軍を進撃させる。だが、カルタゴ軍はスパルタ出身の傭兵隊長クサンティッポスに率いられギリシア式ファランクスの訓練を受けたカルタゴ歩兵一万二千と大枚をはたいて雇い入れた精強なヌミディア軽騎兵四千、そして百頭の戦象という新編成の軍で迎え撃つ。カルタゴ存亡を賭けた背水の陣だった。決戦場はチュニス。百頭の戦象はローマ軍を蹂躙し、隊列を壊乱する。その側面にヌミディア軽騎兵とカルタゴ歩兵が回り込み、両翼を突破されたローマ軍は大敗を喫し、執政官レグルス以下五百名の将士が捕虜となる。カルタゴ回天の大勝利には戦象が一役買った。この戦闘以後、ローマ軍は戦象の威力をひどく恐れた。勢いに乗ったカルタゴは、前二五三年シチリア島のパノルムス(パレルモ)市に戦象百五十頭を含む大軍を差し向ける。市の防衛を担った執政官メタウルスは一計を案じた。城壁の周囲の壕に戦象部隊をおびき寄せ、落ちたその時に長槍や矢を集中して浴びせて壊滅させたのだ。壕に落ちなかった戦象は恐慌状態に陥り、カルタゴ軍に襲いかかり大損害を与えた。ローマ軍は混乱したカルタゴ軍を追撃し、なんなく勝利をおさめる。(ちなみにエトナ山が噴火したため、戦象が怯えて逃げ出したという説もあるが、これは創作らしい)執政官メタウルスはこの勝利を記念し、戦象の姿を刻んだ貨幣を鋳造させた。ローマ軍は戦象の脅威をピュロスとの戦い同様、再度克服したのだった。ローマ軍に鹵獲された百二十頭の戦象は、「戦象恐るるに足らず」ということをローマ市民に見せ付けるため、闘技場で歩兵隊に悉く殺された。その後も虜囚となった無数の戦象やアフリカでとらえられたサヘル象は格好の見世物として剣闘士やライオン、犀、熊などと戦わされ、命を落としていくことになる。

第一次ポエニ戦争後、カルタゴは傭兵たちが起こした叛乱に悩まされた。その鎮圧のため、戦象も投入される。ハミルカル・バルスは前二三八年のマルカの戦いで反乱兵をシア峡谷に追い込み、戦象部隊で踏み潰させたという。フロベールの小説、サランボーには、その様子が描写されている。

 

第二次ポエニ戦争(前二一九年〜前二○二年)

第一次ポエニ戦争の雪辱をはらすため、名将ハンニバルは、苦心惨憺の末三十四頭の戦象を連れアルプス山脈を越えた。有名なアルプス越えである。象の姿は現地人を敬服させるのに役立ち、彼らは今まで見たことの無い巨大な動物を連れた軍に同道するのを誇らしく思ったという。アルプス越えの後、七頭残った戦象もトレビア河畔の戦いでは、全く戦闘に寄与しなかった。現在も各国陸軍の士官学校教本に載る包囲殲滅の手本、カンネーの戦いでも戦象は使われていない。前二○七年、ハンニバルと合流しようとした弟ハスドルバル率いるカルタゴ軍をローマ軍はメタウロ河で迎撃する。カルタゴ軍には百頭近い規模の戦象部隊が含まれていたが、崖に反響したローマ兵の喚声に恐慌をきたし、カルタゴ軍を踏み潰しはじめた。戦象の暴走に対しハスドルバルは、象使いに象を殺すよう命じた。象の急所である首の付け根に鑿をあて、槌を振るい一撃するのだ。この方法はハスドルバル自身が考えたといわれている。戦闘自体は象の暴走とローマ軍が右翼に回り込んだことにより、カルタゴ軍の大敗北に終わり、ハスドルバルも戦死した。

ハンニバルの遠征では、ほとんど活躍できなかった戦象だが、ひとつ興味深い逸話を残している。発掘された当時の貨幣には明らかにインド象とわかる戦象が刻印されており、ハンニバルの戦象の中に、インド象がいたらしいことを示している。ローマ人史家プリニウスの著作によると、おそらく一頭のみだったと思われるこのインド戦象には、スルスという名前がつけられていた。スルスとは、「シリア人」という意味であり、前述のラフィアの戦いで勝利したプトレマイオス朝エジプトがセレウコス朝シリアから鹵獲した戦象のうちの一頭だったと考えられる。このインド象をハンニバルは軍の指揮のために使用した。サヘル象よりも背の高いインド象は、この役割に適していたことだろう。インドからエジプト、カルタゴを経てアルプスを越え転戦したスルスは、まるで戦象の歴史を一頭で体現したかのような数奇な運命を辿った古参兵だった。

ハンニバルがイタリア半島で転戦を重ねている間、ローマ軍はカルタゴ軍の策源地であるイベリア半島に軍を進め、さらにカルタゴ本市を直撃すべく北アフリカに上陸する。急遽本国にとってかえしたハンニバル指揮下の軍は、ザマでスキピオ率いるローマ軍を迎え撃つ。前二○二年のザマの戦いで、ハンニバルは五万の大軍の他、戦象八十頭を揃え、一線に配備する。(この八十頭の戦象は訓練を施されておらず、急遽投入されたという説もある)スキピオは戦象対策として従来の密集陣形を改め、中隊ごとに間隙を作り、突撃する戦象を通過させた。そして、第一線、第二線、第三線の間で挟撃、長槍を投擲する。(図参照)作戦は成功し、戦象部隊は期待された効果をあげることなく壊滅した。戦闘はヌミディアを味方につけて優勢な騎兵戦力を活用し、敵手の手法を学び両翼包囲を達成したローマ軍の勝利に終わる。こうしてカルタゴはローマに敗れ、過酷な和平条約を結ばされた。その中に十隻を除く全軍艦の破棄と共に戦象の引渡し及び二度と戦象を飼育しないという条件が存在した。ローマ軍が対戦象戦術を確立しても、戦象は未だに実質上の戦力として十分脅威だったのだろう。ハンニバルの敗北と共に、カルタゴの戦象の歴史は完全に幕を閉じる。   

    

ちなみにローマは、カルタゴとの戦いで戦象の弱点を見抜いたため、あまり戦象を使用しなかった。前一二一年と前一二二年、ガリア人との戦闘で投入され、象を見たことのないガリア人騎兵を脅かした程度だった。前四八年のファルサロスの戦いではカエサルに敗れたポンペイウス派の残党が、マウレタニア王ユバに支援されて戦うが、このときユバの軍勢には六十四頭の戦象も含まれていた。しかし、ユバの戦象は自軍に突っ込み、混乱を引き起こしただけだった。その後、戦象は、戦闘に投入されることなく、闘技場で格好の見世物として大虐殺されるか、大浴場を作ったことで有名な暴君、カラカラ帝がアレクサンドロスを真似て象を連れてパレードするなど、儀典用に使われるにとどまった。

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