日本陸海軍爆撃機総括

 

 

陸軍爆撃機の限界

よく「日本陸軍の白兵戦と精神力至上主義」などという決り文句が散見されるが、それならば、ただ歩兵の動員、訓練のためのみに凄まじい予算をかけたことになるが、そんな形跡はない。たしかに海軍のように自前で大規模な航空工廠を持ってはいないが、陸軍が最も予算をかけたのは、他ならぬ航空機だった。大正時代に戦車無用論はあったが、航空機無用論は聞いたことがない。

陸軍の作戦目的は、大正期から1貫して対ソ戦が中心で、航空機も対ソ戦に従事させる機体が開発された。黎明期のとりあえず爆撃機を持つという時期を経て、93式重爆、93式軽爆という重、軽が分化したあたりから、重爆は反復攻撃によるソ連航空基地の撃滅、軽爆は地上軍の直接支援というように役割分担ができはじめ、地上支援と航空撃滅戦を目的とした航空兵力の整備がすすめられた。航空撃滅戦は、単に地上支援を円滑ならしめる航空優勢の確立のみならず、初期にはソ連重爆の本土空襲阻止のような攻勢防空の意図もあった。陸軍の対ソ航空撃滅戦重視は、97式重爆、百式重爆と4式重爆まで変わらない。しかし、南方戦で実証されたが、反復攻撃を想定して開発された重爆の爆弾搭載量の不足は致命的だった。陸軍の重爆にとって対ソ戦、対米戦に関わらず、本来なら、開戦劈頭の奇襲で敵航空基地を1挙に葬るため、搭載量は最優先事項のはずだが、戦闘機並の高速、機動性を重視した。こうまで、反復攻撃を重視したのは、敵航空基地を撃ち漏らした際、2度目、3度目の爆撃を考えていたからだろう。撃滅は不可能でも、戦闘機の迎撃や対空砲火を掻い潜って敵航空基地の機能を妨害することは十分可能だからだ。また、シベリア鉄道の支線や橋梁への攻撃を想定していたのではないか。(すぐに修繕されてしまうから継続的に攻撃を行わねばならない)同時に航空撃滅戦後、地上支援に回すことも念頭にあったのかもしれない。奥底には、建前とは異なり、陸軍重爆隊の数では開戦劈頭における1気呵成の対ソ航空撃滅戦は難しく、何度も攻撃せざるを得ないという事情があったように思われる。

事実、昭和10(1935)年の時点で、すでに対ソ戦では、開戦後、大編隊による航空撃滅戦は難しいので海軍の支援を仰ぐという見解を出していた。また、現地では掩蔽されたソ連軍機への攻撃に対しては、重爆隊のみでは不足であり、航空優勢を確立した後に、爆装戦闘機の急降下爆撃で虱潰しにする案が出され、1部の部隊で訓練も行われていた。すでに対ソ航空撃滅戦は絵に描いた餅になりかけていた。

比較的うまくいったはずの地上支援用の軽爆でも、太平洋戦争で実証されたが、戦争後半にはもはや、出る幕はなく、爆装戦闘機が代替した。2式複戦屠龍に爆撃任務を課す他、4式戦闘機疾風にタ弾(子弾を空中で撒き散らして爆撃機を撃墜する空対空爆弾)を搭載して飛行場を襲撃した。軽爆は、ほぼ航空優勢を握っていた対蒋介石軍戦のみにおいて、なんとか活躍できた。陸軍が追求した優れた機動性を持つ爆撃機は、諸外国では、もはや戦闘機と爆撃機の能力を兼ねそなえた戦闘爆撃機として実現されていた。アメリカのP47など、最大1トンも積載量があった。最終的に陸軍の軽爆は試作のキ93、キ102乙襲撃機などの、500キロ爆弾と重機関砲搭載の双発襲撃機に吸収されていった。

陸軍の爆撃機は、基本的に対ソ戦を意識(それすら不可能になりつつあったが)していたにも関わらず、南方に引っ張り出されて戦ったのだから、不利は否めない。太平洋戦争における陸軍航空隊は、爆撃機に限定せず、慣れない洋上航法により、自壊機が非常に多かったという。機動性優先、搭載量軽視、戦闘爆撃機化の遅れなど、陸軍の爆撃機、特に重爆は、その出自、環境から性能的限界が早くきてしまった。太平洋戦争では、活かしどころがなくなってしまったといえよう。ニューギニア戦以後の爆撃機無用、戦闘機超重点という方針が、陸軍爆撃機の限界を如実にあらわしている。

末期において、最優先に撃破すべき目標は、陸軍爆撃機にとって全く想定外のアメリカの艦艇となった。最後は対ソ航空撃滅戦の総決算的な4式重爆で雷撃を行う羽目になってしまったというのが、最も象徴的である。

 

海軍陸上攻撃機の錯誤

日本海軍は、よく知られている通り、大正10年のワシントン軍縮会議で戦艦と空母の保有量を制限され、また、ロンドン軍縮条約では日本海軍が望みをかけていた大型魚雷搭載潜水艦や駆逐艦さえ制限をうけた。主力の戦艦は主砲を大口径化(後の大和級)して凌ぎ、制限を受けていない兵器として、水雷艇があったが、暗夜でなくては運用できず、高波に影響を受けるので、切り札にはできない。

そこで、以前から偵察哨戒と艦艇攻撃任務を兼ねていた飛行艇の進化形として、陸上基地から運用する陸上攻撃機が登場した。陸上攻撃機は艦攻、艦爆とともに空飛ぶ水雷艇としての役割を期待され、戦艦同士の艦隊決戦の前に、駆逐艦、潜水艦と共に水雷決戦で活躍する予定だった。想定される主敵は無論のことアメリカ海軍だった。

よく日本海軍は、「大艦巨砲主義を信奉して敗れた」と称されるが、ただ大和級を建造していただけでは、そうは言い切れない。当時は米英仏独伊、ソ連まで戦艦を建造、もしくは計画していた。その中で日本海軍は、大正9(1920)年の海戦要務令(第2回改正)、昭和2年の第3回校正版でも航空隊の運用が追加され、昭和9(1934)年の航空戦要務草案では、航空決戦によって緒戦に航空優勢を確立、優先目標に航空基地や空母、基地航空隊の活用、戦略爆撃なども盛り込まれている。航空機そのものの利用に関して言えば、先進的ですらあったと言える。

しかし、実際の太平洋戦争の陸攻の任務は想定していた「空飛ぶ水雷艇で艦隊決戦の1番槍」とは異なり、戦艦よりも遥かに広い範囲で行われた空母艦隊決戦の支援、またそれが不可能となると基地航空決戦の主役となった。単独では無論のこと、護衛機をつけても、アメリカ艦隊を雷撃する陸攻の被害は、ソロモン、ガタルカナルなどで増大する1方だった。航行中の大型艦2隻を相手に、陸攻の実力を発揮したとされるマレー沖海戦は、小刀しか持っていない町人を斬り捨てたようなもので、護衛戦闘機という同じ刀を持ち、充分な対空火器という鎧を着こんだ艦隊という大男に挑むにはあまりにも無力だった。陸攻も、最後の手段、航空機そのものを爆弾とした特攻をもってしてもアメリカ艦隊のレーダー+艦上戦闘機+対空砲システムは破れなかった。確かに、航空機は裸の艦艇には優越したが、防空能力を持つ艦隊には歯が立たなかった。日本海軍もまた航空という土俵で、アメリカ海軍と4つに組んで投げ飛ばされてしまった。

では、陸上基地から運用する固定翼の大型爆撃機で艦隊を撃破する、という考え方は、そんなに的外れなものだったのだろうか。そうなると代替する航空兵力といえば、空母艦載機しかない。もともと艦載機は、艦から発進するという性格上、かなり制約が多くなる上、搭乗員の育成、艦から発進させる手間や複雑な空母機動部隊の運用など、陸上機に比べ、相当の労力ならびにコストがかかる。その時点で既にマイナスであったのではないか。艦載戦闘機、艦爆、艦攻を揃えた空母艦隊決戦を日本海軍は戦ったが、ミッドウェー後、搭乗員の練度など、ついに開戦時の水準に達せず終わった。日本海軍の失策として槍玉にあげられる陸攻だが、空母機動部隊という複雑なシステムが、当時の技術力、組織力の日本にとって唯1の理想とは思えない。

思うに、陸攻の構想は、いささか、早すぎたのではないか。護衛戦闘機や対空砲をものともせずに、直接艦隊を叩く手段が必要だった。陸攻を活かすには魚雷や爆弾よりはるかに長射程の対艦ミサイルの登場を待たねばならなかった。(あまりにお粗末とはいえ、桜花にその萌芽は見られる)のちに、フォークランド紛争でアルゼンチンのシュペルエタンダール攻撃機が搭載したエクゾゼでイギリス艦隊に1矢報いたように、対艦ミサイルを搭載してはじめて防空能力のある艦隊に対して、航空機は効果的な攻撃手段を得たと言える。

対艦ミサイルを大量に使用した飽和攻撃で、アメリカ機動部隊を撃破することを狙ったソ連海軍航空隊の爆撃機、また、自衛隊のF1、F2、P3Cなど、対艦ミサイルを運用可能な戦闘攻撃機、哨戒機などは、まさに現代の陸攻とも言える。

日本海軍の陸攻は、大型航空機で艦船を攻撃という発想そのものの失敗というより、艦隊決戦の露払いという特異な任務のため、あらゆるものを犠牲にして航続距離を最優先としてしまった。その在り方が、歪で無理なものだったように思われる。

 

軍事ドクトリンに合わせて兵器を開発するのは、当たり前のことである。アメリカのイージス艦は、空母機動部隊をソ連爆撃機や潜水艦の対艦ミサイルから防護するために、空中目標多数を同時に探知攻撃可能な艦として建造された。ソ連のMIg25はアメリカの爆撃機や偵察機を撃ち落す為ために、防空能力に特化した迎撃戦闘機として設計された。

陸軍の爆撃機は対ソ航空撃滅戦と地上支援のため、海軍の陸上攻撃機は対米邀撃艦隊決戦のために生まれた。しかし、当初の予想と大いに異なった状況に直面するとあえなくボロを出してしまった。軍事ドクトリンの設定に誤りがあったと言えば、それまでである。「こんなこともあろうかと」と早々と見抜いて準備をしておくにこしたことはないが、どの国の兵器も、いや軍事ドクトリンそのものも、開戦前の予想や時代の流れなど、予想とは全く違った様相に直面するもので、何も日本に限った失敗ではない。

そうなった時、「国家の存続のためには、この戦争に勝利(敗北しない)するためにはいかにするか。何が必要か?」と大本に立ち返って考え直し、軍事ドクトリンを修正変更する組織の柔軟さが必要になる。組織の性格もまた、1朝1夕で変えられるものではない。爆撃機という兵器1つとってみても、常々、指摘されているように、日本軍の組織、兵器開発、生産などが硬直しており、柔軟さが平素から養われていなかったことは、明らかだろう。

ドクトリンを修正し、それに合わせた新たな兵器を開発すると共に、また新たなドクトリンの下で古いドクトリンに合わせて開発された兵器をも活かしていくことが重要であろう。

モノを作ることも重要だが、モノの使いように

 

日本は都市を焼け野原にされて敗戦を迎えた。確かに、戦略爆撃(原子爆弾含む)のみが、太平洋戦争の帰趨を決したとはとても言いがたい。機雷や潜水艦による通商破壊、島嶼の占領、日本陸海軍戦力が撃滅されることによって、敗北に追い込まれていった。しかし、東京大空襲や原子爆弾投下などから、B29による戦略爆撃が死命を制したという印象が強い。特に銃後の日本人に決定的な敗北、海を越えてやってきた他国による完全占領という日本の歴史はじまって以来無い現実を突きつけたのは、B29による戦略爆撃だと考えてよい。

戦後、日本人は自国の防衛を建前上否定する敗戦直後の過渡期的な憲法を持ち続けることを許し、国防を意図的に忘却してきた。「悪い人はおらず、悪い国もなく、戦争こそが悪である。最大の被害を受けるのは民間人である。2度と戦争をせず、平和を守るには、人殺しの集団に過ぎない軍隊をはじめとする戦争に繋がるあらゆるもの、特に人を傷つける凶器である兵器を否定すべきである」という無責任で安易な反軍主義を認めてきてしまった。自衛隊員を恥ずかしいと呼わばる作家がノーベル賞を受賞し、今も文壇の大物として君臨しており、彼に代表されるような文学界、言論界が現代戦後日本の精華であり、文化レヴェルなのである。没義道と不自由が戦後日本の文化的メインストリームと言って過言ではない。

もし、都市に対する戦略爆撃が行われず、原爆が使われたとしても艦隊や軍に落とされて、史実通りに本土決戦をすることなく戦争が終結していたとしたら、日本人の戦争観、文化は今とは大分違うものになっていたのではないか。日本陸海軍が、ついに、まともに持つことのできなかった4発重爆撃機による戦略爆撃により、日本は拭い難いトラウマを植えつけられた。戦略爆撃の恐るべき心理的効果は、厳然と現在まで続いている。戦略爆撃は日本の文化を決定的に破壊し、見るも醜悪なものに変えた。

 

 

 

 

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